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地動説とは?唱えたのは誰?時代背景や天動説との違いなど徹底解説

「地動説(ちどうせつ)」とは、地球が自転しながら太陽の周りをまわっているという学説のことです。私たちの祖先は太古の時代より、自分たちが暮らす大地の成り立ちや構造について様々な思いを巡らせていましたが、それらは基本的にすべて「自分たちが世界の中心」「地球が世界の中心」という考え方の上に成り立っていました。それを覆したのが「地動説」。唱えられ始めたのは15世紀から17世紀にかけて、世界の価値観が大きく変わる転換期でもありました。地動説とはどんな学説で、世界にどんな影響を与えたのでしょうか。時代背景とともに詳しく解説します。

まわっているのは地球か太陽か?「地動説」誕生までの流れ

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現代なら、地球が太陽の周りをまわっている(公転)ことは、小学生でも知りえること。しかし15世紀ごろまでは、一般的には「地球の周りを太陽が回っている」と強く信じられていました。「地動説」はいつ頃、どのような流れで誕生し、広まっていったのでしょうか。まずは「地動説」誕生までの流れを見ていきたいと思います。

古代の宇宙観:満天の星空に思いを馳せて

私たち人類の祖先は、何千年も前からすでに、天文に興味を抱いていました。

夜空に輝く星々を星座に見立てて神話の世界を描くのと同じように、太陽や月の動きや季節の移り変わりに注目していたのです。

紀元前4世紀頃に活躍した古代ギリシャの哲学者・アリストテレス「世界の中心に地球があって、その周囲に月や太陽などが移動する天球が幾重にも重なりあっている」と論じています。いわゆる「天動説」というものです。

そして2世紀頃、古代ローマの学者・クラウディオス・プトレマイオスによって、アリストテレスをはじめとする古代ギリシャの賢人たちの考えがまとめられ、「天動説」はゆるぎないものとなりました。

何せ、宇宙へ飛び立つことはおろか、地上の移動距離も手段も限られていた時代のこと。自分たちが踏みしめる大地がどのような構造をしているのか、夜空の星々はどれほど遠くにあるのか、実際に行って確かめることなどできるはずもなく、「目視で知り得る情報」がすべて。東のほうから太陽が昇り、やがて西に沈んで翌日再び東に姿を現すなら、あの太陽が自分たちの周りをまわっていると考えてもおかしくありません。

15世紀に入るころまで、2000年近い間、人々は「地球が中心にあり、その周りを太陽がまわっている」と考えていました。

紀元前にも「地動説」を唱えた人物がいた?

ただし、みんながみんな「天動説」を唱えていたわけではありません。「天動説」に疑問を投げかける学者も少なからず存在していました。

まず挙げられるのが、紀元前3世紀頃に活躍した、古代ギリシャのサモス島の学者・アリスタルコスです。

アリスタルコスは太陽の大きさや地球との距離に着目。月と地球、そして太陽の角度から距離を計算し、太陽が地球よりはるかに大きな天体であることを発見します。こうしたことから「地球が太陽の周りをまわっているのではないか」という説、いわゆる「太陽中心説(地動説)」を打ち出したのです。

また、紀元前5世紀頃の古代ギリシャの哲学者・プラトンも、太陽が宇宙の中心であると考えていました。

プラトンと同時期に活躍したとされている哲学者・ピロラオスは、世界の中心に炎があり、その炎の周りを地球や太陽、月などがある、という説を唱えています。

しかしこれらの説はいずれも「天動説」と比べれば少数派であり、「天動説」を覆すほどの存在感を示すことはありませんでした。

矛盾はあるけど……概ね定着した「天動説」

「地球が宇宙の中心であり、太陽や月、そのほかの天体はすべて、地球の周りをまわっている」

アリストテレスやプトレマイオスの登場以後、私たちの祖先は長い間、そう信じ続けてきました。

その後、時代が進み、天体観測の技術も少しずつ向上。それに伴って、「天動説」にもいくつかの矛盾点が確認されるようになります。いきなり「天動説が間違っている」という話になったのではなく、これまでの天動説だけでは説明がつかないことがいろいろと分かってきて、説明を付け加えなければならなくなっていったのです。

さらに、細かく計算すると、地球の「1年」にほんの少しズレがあることも判明。地球は動かず太陽がまわっているだけのはずなのに、どうしてぴったり1年にならないの?など、今すぐ困るわけじゃないけれどおさまりの悪いことが次々と……。

ごくシンプルに「地球の周りをまわっている」と考えられていた、太陽をはじめとする天体たちについて、あれこれ説明を付け加えていくうちに、「天動説」は非常に複雑なものになっていきました。

しかしそれでも、まだしばらくの間は、「天動説」の存在はゆるぎないもの。古代から中世に時代が移っても、「天動説」を覆すだけの学説はなかなか登場しませんでした。

中世に入ると「天動説」は単なる学問の域を超えて、宗教や教会と少なからず関連を持つようになります。

中世のキリスト教では、神によって作られた世界とは、プトレマイオスが提唱したような「地球を中心とした世界」を示していました。

多少の矛盾がみられるとしても、当時の人々には、教会公認の考え方に異議を唱えるなど考えられないことだったのかもしれません。

大航海時代とコペルニクスの「地動説」

「地動説を最初に唱えたのは?」と言われると、アリスタルコスやプラトンなど紀元前の哲学者たちの名前も挙がるため、はっきりとしたことはわかりません。

しかし「地動説を唱えたのは?」という問いに対しては、多くの場合「コペルニクス」の名前が挙がるのではないでしょうか。

ニコラウス・コペルニクスが活躍したのは16世紀。彼はポーランド出身の司祭であり、天文学者でもありました。

この時代、ヨーロッパは大きな転換期を迎えていました。

オランダやポルトガル、スペインなどの国々が大きな船を造り、外洋へと漕ぎ出して新天地を開拓し始めた、いわゆる「大航海時代」の幕開けです。

大航海時代は、ヨーロッパの人々に新しい理念や考え方をもたらしました。「天動説」も例外ではありません。

コペルニクスは聖職者でしたが、天文学にも精通していました。彼はアリスタルコスの「太陽中心説」のことを知っていて、いろいろ観察と研究を重ねた末、地球が自転しながら、太陽の周りを365日と約四分の一日かけてまわっていることを突き止めます。

世紀の大発見です。

一方で、教会が推し進める「天動説」を否定することにもなります。コペルニクスはこの説を発表するか否か、長い間迷ったのだそうです。

1543年、コペルニクスは自らの死を前に、これらの説をまとめた本を刊行。彼は著書の中で、この説が単なる憶測や推論ではなく、根拠あるものであると記述。算出方法などについても詳しく記しています。

よく、物事の見方が180度変わってしまうような状況を「コペルニクス的転回(コペ転)」などと呼ぶことがありますが、それはこの時代の「天動説」から「地動説」へ転じた様子を例えた言葉。文字通り天地がひっくり返るほどの大事件だったことが、この言葉からも伺えます。

地球はまわる!「地動説」を決定づけた学者たちの功績

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コペルニクスによって説かれた「地動説」は世界の人々に大きな衝撃を与えました。しかし長年信じられてきた「天動説」をはじめとする学説・常識もあり、そうやすやすと受け入れられるものでもありません。コペルニクス以後、様々な学者や有識者が「地動説」について論じています。実際、「地動説」が定着するまで、かなりの年月がかかったようです。「地動説」に特に大きな影響を与えた人物を中心に、その後の流れを見ていきましょう。

教会から睨まれ裁判に発展:ガリレオ・ガリレイ

苦労してあれこれ理由を後付けこじつけ、長年「天動説」を守り続けてきたけれど……。あれ?言われてみれば、地球が太陽の周りをまわっているとすれば、あれこれ難しく考える必要なくない?当時の人々がそう考えたかどうかわかりませんが、コペルニクスの死後、「地動説」はじわじわと世の中に浸透していきました。

それでも「天動説」はまだまだ根強い。何せバックに教会がついています。

時代は16世紀後半から17世紀初頭。日本では江戸時代が始まったころ。イタリアの物理学者にして天文学者でもあるガリレオ・ガリレイが主張したことで、「地動説」はよりゆるぎない存在となっていきました。

ガリレオは自分で作った望遠鏡を使って天体を直に観測。金星の満ち欠けなどを発見し、地球が太陽の周りをまわっていると確信します。

しかし当時のカトリック教会は、地動説について非常に過敏になっていたようで、地動説を唱えるものは異端であり処刑もあり得る、と強固な姿勢を見せていました。

それまでも、科学的で説得力のある学説を披露し教会のお偉方をギャフンと言わせたことがあったガリレオ。地動説以外のことでも教会から目をつけられていたのかもしれません。地動説を唱え始めると間もなく、ガリレオはとらえられ、裁判にかけられてしまうのです。

ガリレオ裁判は2回、行われました。裁判で教会はガリレオに地動説を二度と言及しないよう言い渡します。

裁判の場で言ったのかどうか定かではありませんが、「それでも地球は動く」というセリフはあまりにも有名です。

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