南北朝時代室町時代日本の歴史

朝鮮王朝が対馬を攻撃した「応永の外寇」とは?背景や経緯・その後を元予備校講師がわかりやすく解説

対馬の支配者である宗氏の当主交代と倭寇の活動再開

14世紀末から15世紀初めにかけて、対馬を支配していたのは守護大名の宗貞茂でした。宗貞茂は、朝鮮王朝との貿易を円滑に行うため、倭寇の取り締まりを強化します。同時期に足利義満が九州の倭寇も取り締まっていたため、倭寇の活動は沈静化していました。1418年、宗貞茂が死去すると子の宗貞盛が跡を継ぎます。

1419年、対馬で飢饉が発生すると飢えに苦しむ人々は倭寇となって、朝鮮半島の忠清南道や海州(朝鮮半島南西部の沿岸地域)を襲撃。倭寇による攻撃で、朝鮮軍300以上が殺害、あるいは捕虜とされました。

事の次第を聞いた朝鮮王朝第3代国王で、王位を息子の世宗に譲っていた上王の太宗は激怒。世宗に対し、対馬への出兵を命じました。宋貞盛も跡を継いだばかりで、領民の統制ができていなかったのかもしれませんね。

応永の外寇

1419年5月、朝鮮王朝第4代国王の世宗は、九州探題の使節に対し対馬を攻撃することを通達しました。同じ内容の通達は対馬の守護大名である宗貞盛にも通達されます。

世宗は李従茂を総司令官として任命しました。李従茂は、倭寇の取り締まりや朝鮮王朝の内乱で活躍した将軍で上王の太宗から厚く信任された将軍です。世宗は李従茂に軍船227隻、兵力17,000余を預け対馬に侵攻させました。

対馬に上陸した朝鮮軍は、島内を探索し倭寇にとらわれていた男女100名以上を救出。倭寇と判断したものたち100人以上を斬首。船を129隻奪いました。

この時、対馬の人々は壱岐の松浦党に援軍を要請。糠岳に兵をひそめます。そうとは知らない朝鮮軍は糠岳周辺に進出。伏兵の攻撃によって100名以上が戦死しました。

戦いの経過を知っていたのか、宗貞盛は遠征軍の李従茂に対し、翌月には台風が来るからそれまでに帰った方がよいと撤退を勧告。李従茂は兵を引きました

応永の外寇後の日朝関係

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朝鮮軍が撤退したのち、対馬の宗氏は朝鮮王朝と修好・親善を図ります。1443年、朝鮮王朝と宗氏は嘉吉条約(癸亥約条)を結び、日朝貿易が制度化されました。これ以後、朝鮮半島に居住する日本人は増加し、三浦の乱の一員となります。三浦の乱後、朝鮮側は一方的に貿易条件を改悪したため、日朝貿易は大きな制約を受けました。

嘉吉条約の締結と日朝貿易の整備

応永の外寇後、朝鮮王朝と対馬の間で活発に使者が往来しました。対馬の有力者で倭寇の首領でもあった早田左衛門太郎は朝鮮側と交渉し、釜山浦、塩浦、乃而浦での貿易を再開させます。

1438年、朝鮮王朝は文引の制を確立させました。文引の制とは、朝鮮にわたるものは、必ず対馬の宗氏が発行する通行許可証(文引)を持参しなければならないという制度のことですね。

1443年、朝鮮王朝と対馬の宗氏は嘉吉条約(癸亥約条)を結びました。この条約で、貿易は対馬島主である宗氏と朝鮮王朝が行うことや朝鮮に派遣できる貿易船の数は50隻までということが決められます。

嘉吉条約の締結により、日朝貿易に対する宗氏の支配権が強まりました。また、朝鮮側では釜山浦、乃而浦、塩浦の三浦を日本船の寄港地と決定し、貿易を統制しやすくします。

日朝貿易の内容と三浦の乱

嘉吉条約後、朝鮮王朝と対馬の宗氏の間で日朝貿易が行われました。日本側は特産品である硫黄などに加え、東南アジアから琉球王国を経由してもたらされる蘇木(染料や漢方薬の原料)や香木(沈香などの良い香りがする木)を朝鮮に輸出します。

朝鮮からは木綿高麗版大蔵経などが輸入されました。木綿は吸湿性に優れ、肌触りが良いことから衣料の原料として用いられます。また、高麗版大蔵経は将軍や守護大名が寺院に納めるために輸入しました。

貿易が盛んになるにつれ、三浦に居住する日本人(恒居倭人)の数は増え続け、トラブルも頻発するようなります。朝鮮王朝は三浦の倭人に対し強硬姿勢を占めるようになりました。

1510年、三浦の倭人たちが朝鮮王朝に対し反旗を翻します。戦いはおよそ半月ほど続きますが、朝鮮王朝の勝利で終わりました(三浦の乱)。

壬申約条による日朝貿易の制限強化

三浦の乱の発生後、日朝貿易は停止した状態でした。貿易を再開させたい対馬の宗氏は、山口県を中心に勢力を持ち、日明貿易にも参画していた大内義興を頼ります。義興は後見していた室町幕府10代将軍の足利義稙と相談し、朝鮮に使者を派遣。貿易再開の交渉が始まりました。

1512年、朝鮮王朝側は対馬の宗氏に対し貿易再開の条件を通告します。一つ目は倭人の三浦居住の廃止です。二つ目はそれまで三港開港していたものを、一港のみの開港に変更すること。三つ目は宗氏の貿易船を50隻から25隻へと半減させること。

他にも条件はありましたが、貿易再開を優先する対馬の宗氏は、これらの条件を受け入れました。壬申約条は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)まで続きます。

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