平安時代日本の歴史

政治の主導権を取り戻そうとした「後三条天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説

後三条天皇のブレーンとなった大江匡房

大江氏は歴史に関する研究を行う紀伝道の学者の家系でした。匡房も幼少のころから学問にはげみます。匡房は16歳で文章得業生となり、20歳のころには従五位下に叙せられました。いわば、新進気鋭の学者といったところでしょうか。

1060年に昇任してから、匡房の昇進はピタリと止まってしまいます。そんな状況に嫌気がさし、一度は引退しようと考えました。しかし、周囲の反対により思いとどまります。

匡房にとって転機となったのは1067年に尊仁親王の学士に任じられたことでした。匡房は天皇の師として学士をつとめ、尊仁親王の信任を得ます。

1068年、後三条天皇が即位すると匡房は天皇の秘書官役である蔵人に任じられました。後三条天皇は平安京に遷都した桓武天皇を意識し、国家制度の立て直しと東北遠征に強い関心を抱きました。匡房は天皇のブレーンとなり、政策実現に尽力します。

延久以前に幾度も出された荘園整理令

平安時代中期から後期にかけて、律令で定められた公地公民制は完全に崩れてしまいました。その代わり、土地は貴族や寺社の私有地である荘園と地方を支配する国司が把握している公領の二つに区分されるようになります。

中でも、国家財政に打撃となったのは荘園の増加でした。奈良時代から平安時代初期の荘園は、国に税を納めなければならない土地です。しかし、荘園領主は税を逃れるため、中欧の有力貴族に名目上の土地所有者になってもらいました。力の強い貴族は課税から逃れやすかったからです。

902年、醍醐天皇延喜の荘園整理令を出したのをはじめとして、984年の花山天皇の荘園整理令、1055年の後冷泉天皇の荘園整理令などがだされます。しかし、最も多くの荘園を持つ摂関家などに忖度したため、思うような成果を上げられません。

後三条天皇が出した延久の荘園整理令

1069年、後三条天皇は延久の荘園整理令を発布します。延久の荘園整理令の内容は大きく分けて二つ。第一に、1045年以後の新しい荘園を停止すること。第二に、認可した書類が不備である荘園は容赦なく停止とすることでした。

後三条天皇は記録を整理するための専門部署として記録荘園券契所(記録所)を設置し、全国各地の荘園を厳しく審査します。さらに、審査の対象をいままで「忖度」されがちだった摂関家や大寺社の荘園にも拡大しました。

記録書の調査の結果、荘園を認める書類(券契)の不備があった場合は、たとえ摂関家の荘園であったとしても容赦なく没収され公領に組み込まれます。また、一部の荘園は天皇直属の勅旨田とされました。これにより、摂関家や大寺社は経済的に打撃をうけます。

延久蝦夷合戦

平安時代初期の桓武天皇の時代、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は蝦夷の首長阿弖流為と戦い、朝廷の支配領域を北へと広げました。9世紀以後、大規模な征服戦争は行われなくなり、東北地方に住む蝦夷は徐々に朝廷の支配に従いました。

朝廷に従った蝦夷の人々を、朝廷は俘囚と称しました。俘囚の長として東北地方で力を持ったのが安倍氏です。安倍氏は1051年から1062年まで続く前九年の役で陸奥守源頼義の軍勢と戦って敗北。安倍氏の勢力は出羽の豪族である清原氏に引き継がれました。

後三条天皇が東北北端の蝦夷を征服し、桓武天皇以来の蝦夷征討を完遂させようとしたのは1070年のこと。戦いの詳細は明らかになっていませんが、津軽半島・下北半島という本州の北端まで朝廷の以降が及んだ可能性があります。

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