平安時代日本の歴史

政治の主導権を取り戻そうとした「後三条天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説

後三条天皇の死後に成立した院政

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1072年、後三条天皇は在位わずか4年で白河天皇に譲位します。後三条天皇の死後、白河天皇は院政を創始。藤原氏の手から政治の実権を取り戻すことに成功します。その一方、摂関家の勢力は目に見えて弱体化しました。日本全国に支配権を及ぼす院のトップは、「治天の君」とよばれ、日本の政治を牛耳る存在となりました。

白河上皇による院政の開始

1072年、後三条天皇は第一皇子の貞仁親王(のちの白河天皇)に譲位します。一説には院政を敷こうとはかったともいわれますが、後三条天皇(太上天皇)は病でこの世を去りました。20歳で即位した白河天皇は関白こそおきますが、後三条天皇と同じく親政をめざします。

1085年、白河天皇はわずか8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位。以後、太上天皇(上皇)となった白河上皇は堀河天皇を後見することを口実に自ら政治を行いました。さらに、白河上皇は朝廷とは別に院庁を設置。天皇にかわって政治をおこないます。

このように、上皇が天皇にかわって政治の実権を握って行う政治を院政といいました。政治の実権を握った白河上皇は、地方官を歴任し経済的に豊かとなった受領や上皇の一族を院近臣として重用します。

摂関家の弱体化

院政がはじまると、それまで政治の頂点に君臨していた摂関家は明らかに没落し始めます。そもそも、摂関家の力の源泉は、天皇代理として人事権を行使できることにありました。院政がはじまると、上皇が天皇代理となり、人事権も上皇のものになります。

出世を願う人々は、摂関家ではなく上皇を頼るようになりました。その結果、土地は院に集中するようになり、八条院領長講堂領といった広大な院の荘園が成立します。

また、経済的な利権が大きい地方の国司になりたいものは、上皇の機嫌をとるため内裏や寺院の造営を請け負うことを積極的に行いました。加えて、院近臣は豊かな国の国司として任命されることも増加します。院の権威向上は、そのまま摂関家の衰退へとつながりました。

治天の君

日本国中の権威と権力が白河上皇に集中した結果、白河上皇はかつてないほど強大な権力を保持することになりました。『平家物語』の中で白河上皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆きます。

鴨川の水と双六のサイコロの目、宗教的権威を背景とする比叡山の僧兵は自分の力ではコントロールできないという嘆きですね。しかし、見方を変えれば、それ以外のことはすべて思い通りにできるという上皇の自信の表れともいえます。

白河上皇の強大な権力鳥羽上皇に引き継がれました。鳥羽上皇の死後、保元の乱で勝利した後白河天皇(上皇)も絶大な力を引き継ぎます。日本全国を支配した白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇などは「治天の君」と呼ばれるようになりました。

後三条天皇が目指した天皇・皇室中心の政治は院政によって達成できた

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後三条天皇はそれまで摂関家によって奪われていた政治の実権を回復し、親政を行おうとしました。後三条天皇の死後、院政が行われると摂関家の力は衰退。皇室が政治の主導権を回復します。しかし、そのために作り上げた仕組みは摂関家が行った摂関政治とよく似た仕組みで、天皇の後見役が政治の実権を握るというものでした。天皇による親政が一時的にでも回復するのは後醍醐天皇の登場を待たなければなりません。

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