徳川の飼い犬に転落した輝元
結局、輝元の独断専行によって毛利は山陽山陰8ヶ国の太守から、わずか30万石の一地方大名へと転落してしまいました。養えない多くの家臣たちが路頭に迷い、毛利は瞬く間に困窮することになったのです。
また輝元は何度も何度も家康や2代将軍秀忠の元を訪れ、ご機嫌伺いに精を出しています。かつて肩を並べていた毛利氏も徳川に頭が上がらない存在となってしまいました。まさに「徳川の飼い犬同然」となったわけですね。
元はといえば秀吉の遺児秀頼を貢献して、相応の地位を獲得したかった輝元のスケベ心が発端だったわけですが、輝元の怒りはなぜか広家へと向けられました。
「西軍が関ヶ原で負けたのは全部広家のせいじゃ。あの時積極的にわしのために働いておれば、こんなみじめな思いをすることもなかったのだ!」
広家は岩国領へ追いやられ、他の親族たちが支藩の藩主を務めるものの吉川家だけは毛利の家臣扱いでした。さらには後にせっかく築いた岩国城ですら破却に追い込まれ、冷や飯を食わされ続ける羽目になったのです。
輝元は己の失敗を反省することなく、毛利が苦境の時期にあっても、お爺さまの訓戒を盾にして家の結束を図ろうとしました。
一、日頼様守御書置之辻、各無二ニ申談、対毛利御家不可存別心之事
引用元 「毛利宗瑞輝元外十一名連署起請文」
(元就公の書き置いた訓戒の通り、何事も皆で相談し、わが毛利家に対して二心を抱かず心得ておくこと。)
これは大坂夏の陣前に交わされた起請文です。誰にも相談せずに事を進め、毛利を改易寸前まで追い込んだのは他ならぬ輝元自身だったはず。まるでその事実を忘れたかのように、家臣たちに遺訓を持ち出してくる姿はまさに滑稽そのものですね。
そして1625年、毛利輝元はこの世を去りました。彼の代で毛利氏は大きく縮小しましたが、彼が起こした間違いも、偉大な祖父や叔父を持ったが故のプレッシャーだったと考えれば、何やらかわいそうな気もしますね。
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偉大な功績を引き継ぐのは難しいということ
輝元が生きていた当時も、そして今も、偉大な功績を残した創業者の跡を継ぐのは難しいことだといえるでしょう。人間の器は元々決まっているものですし、無理に器を大きくしようとしても失敗するだけのこと。輝元は身をもって指し示してくれたような気がしますね。