南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

偉大な祖父の跡を継いだ「毛利輝元」とは?名君?それとも暗君に過ぎなかった?

二人の叔父と、織田信長との対決

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元就亡き後、輝元を支えたのは二人の叔父でした。毛利の両川と称えられた吉川元春と小早川隆景の存在無くしては、毛利氏の勢力は決して安泰ではなかったことでしょう。やがて東から織田信長の圧力が迫ってきます。

元就の死と、尼子の残党

1571年、毛利氏を挟み撃ちするかのように東では尼子の残党が、西では大内の残党が反乱を起こしますが、元就はこれを難なく平定。しかし、領国の安定に安心したかのように元就が死去してしまいます。

輝元のために新たな領国支配体制を築こうとした元就でしたが、その死はさすがに毛利氏一族に衝撃を与えたことは想像に難くありません。

偉大な創業者のお爺さまを亡くした輝元も悲嘆にくれますが、かといって毛利王国の全てを自分が背負い込む覚悟はできていなかったのでしょう。今度は頼るべき相手を二人の叔父に求めました。

 

「世情一大事時分候条、弥互之覚悟ためにて御座候間、申事候、日頼被仰置御一通之ことく、誠隆景元春、唯今ハ、我等三人之儀者、自然時ハ乍勿論、一具ニ罷成御事候条、其段存候へは、内々万申談儀、大小少も用捨非申儀候、我等存所をも申、別而内外共ニ被付御心、御指南候者、かい分可成其心得候、只今とて隔心申儀もなく、御両所対我等疎之御あつかい、毛頭無之候」

引用元 「毛利輝元自筆書状」

(この一大事の時に覚悟のために申し上げる。故元就公が仰せだったように、隆景叔父、元春叔父、そして私を含めた三人が、事の大小を問わずに心を一つにするべきだ。私はまだまだ不調法者ゆえ、ご両人の御指南を頂きたい。事が起これば何でも相談するし、ご両人を粗略に扱うつもりはないが、もし意に添わず行き届かないことがあった場合、なんでも私に意見を頂戴したい。)

 

元春、隆景の二人の叔父は、戦国の世に名だたる名将と謳われるほどでしたから、輝元にとっては頼りがいのある存在だったに違いありません。輝元に覚悟があったのかどうかは別にして、毛利氏は人材に恵まれていたともいえるでしょう。

さて、一度は負けた尼子氏の残党ですが、尼子の血統を継ぐ尼子勝久をトップに据えた山中鹿之助らは、まだ尼子の再興をあきらめてはいませんでした。その後も何度も挑戦を繰り返し、毛利氏を悩ませることになったのです。

織田との直接対決

上洛を果たした織田信長が畿内を中心に勢力を拡大してくると、織田領と毛利領が接近するに従ってキナ臭い雰囲気になってきました。当初は両者とも良好な関係が続いていたのですが、信長がしきりに毛利に対して牽制を仕掛けてきた頃から空気が変わってきたのです。

密かに織田が「尼子の残党」を支援していたこともありますし、何より決定的だったのが室町将軍足利義昭を毛利が迎え入れたことでした。とはいえ、居場所をなくした義昭が勝手に毛利領へやってきただけのことですから、毛利としてはありがた迷惑な話でした。

しかし織田との決別を決定した輝元は、織田包囲網の一角として加わり、まず手始めに兵糧攻めに苦しんでいた石山本願寺の救援に乗り出します。1576年、海の戦いに慣れた村上水軍を派遣し、激しい戦いの末に大勝利。まず第1ラウンドは毛利の勝利に終わりました。

さらに毛利の威勢を目の当たりにしたのか、ラッキーなことに播磨の諸将がこぞって毛利の味方につきました。気を良くした輝元は、今度は大軍をもって播磨の上月城を攻撃します。なぜなら、しぶとい尼子の残党が上月城に入城していたからです。

多くの播磨諸将の離反を受けた織田軍は慌てて後退し、播磨の平定に苦慮することになりました。こうして輝元は織田軍の居ぬ間に上月城を降伏させ、尼子勝久並びに山中鹿之助らを自刃させました。

各地で毛利氏有利なままに戦況が進む中、なぜかそれ以降の毛利軍は動く気配すらなくなりました。輝元としては足利義昭を戴いて京へ上り、幕府を再興させたい意図があったのですが、叔父の小早川隆景が強く反対を唱えたからでした。

「九州には大友という敵もいるし、謀反を起こしそうな家臣もいる。何より輝元の器量で織田とまともに戦って勝ち目があるものか。」隆景はそんな風に考えていたのかも知れませんね。

しかし、その決断は結局裏目に出ることになります。苦労して播磨・摂津を平定した織田軍が、いよいよ本格的に矛先を毛利領国へ向けようとしていたからです。

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明石則実