室町時代日本の歴史鎌倉時代

北条政子VS日野富子!幕府の実権を握った2人の女性を徹底比較

2-1流人の夫が征夷大将軍に

頼朝と政子が結婚したからには、北条氏もうかうかしていられません。1180年には、平氏に東国の武士たちは「打倒平家!」を掲げて発起し、新しい棟梁をと頼朝の元に集まります。北条氏の後ろ盾もあり勝てると踏んだ頼朝は、彼らの期待を受け挙兵しました。源平合戦の始まりです。

石橋山の戦いで敗北した頼朝を心底心配した政子ですが、房総半島に逃れたと聞きホッとします。その後、関東の武士たちも集まり、富士川の戦いでは20万もの軍となり平家を蹴散らしました。合戦中の1182年には、無事嫡子頼家が生まれています。

1185年に、鎌倉幕府征夷大将軍頼朝が誕生しました。鎌倉を拠点とした頼朝は鶴岡八幡宮を中心に街を整備し、大倉御所で政子と共に暮らします。2人目の実朝を宿しており、安産の祈願のため海から八幡宮にかけて、一直線の参道を作るほど大切にされていたのです。

2-2御台所の威厳と家族の死

この頃は、一夫多妻制で、色男の頼朝には側室も多く、特別に亀の前ことを気に入っていました。長男を出産した直後に夫の浮気を知った政子は、憤慨し家臣に命令し亀の前が住んでいる家を焼き払ったのです。頼朝は政子を責めず実行した家臣に、「なぜ、事を起こす前に知らせなかった」と諫め、家臣は逃亡せざるを得ませんでした。既に政子は、「御台所の命令は絶対」という権利を認めさせています

1199年に夫頼朝は落馬のため亡くなりました。政子は自らの命も絶とうと思うも、子どもを残して死ねないと踏み留まったのです。長男の頼家を将軍に据え自身が後見者となります。頼家が病に倒れたときに、次男の実朝を3代目将軍に据えました。病が治った頼家は激怒し、比企氏と共に反乱を起こし失敗。修善寺に幽閉された後に暗殺されます。もちろん比企氏は、一族もろとも滅亡しました。次男の実朝も1219年に暗殺されてしまいます。夫の他に政子が産んだ2男2女全員を失ったのです。

2-3富子待望の男児誕生がお家騒動へ

一子を死産した富子でしたが、翌年から2人続けて女児を産みます。8歳で将軍になったものの、29歳には将軍職に飽きていた義政は、出家をしていた弟の義視に還俗させており、次の将軍に決めていました。義視は還俗を躊躇いましたが、義政は嫡子ができても出家させると約束していたのです。

富子が26歳のとき待望の嫡子義尚を産み、我が子を将軍にと願います。でも、義政は弟に有力守護大名の細川勝元(ほそかわかつもと)を後見者とし、弟を将軍にと譲りませんでした。義視が将軍になり息子が生まれたら、義尚が暗殺される恐れもあり、富子も必死で我が子を将軍にし守ろうと決意します。

富子は細川氏と対抗する山名宗全(やまなそうぜん)を義尚の後見とするよう決意しました。これがやがて全国守護大名や武士たちを二分する、「応仁の乱」へと発展するのです。

2-4政子VS富子の夫の下での権力は?

恋愛結婚を果たした政子の幸せは安泰に見えましたが、長女を亡くし2年後には夫と次女が死亡。夫の後を継いだ2人の男児も暗殺され、一人ぼっちになってしまいました。でも、頼朝が生きている時代に、家臣たちを従わせる権力を既に持っており、今後の活躍が期待されます。一方富子は、政治を投げ出し遊山、酒宴にふける夫のせいで、幕府の財政は逼迫したのです。弟に将軍を継がせようとする夫たちに対抗し、幼い我が子を将軍にしようと翻弄しますお互いに、強い女性とならなければと決意する時期だったのでしょう

3.悪女のレッテルを貼られる政子と富子

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家族を亡くした政子は、鎌倉武士を奮い立たせ、夫の死後攻め込んできた朝廷を相手に戦います。強い政子が政治の実権を握った瞬間でした。富子は、夫が破綻させかけた幕府の財政を持ち前の財テク術で立て直しました。その後、我が息子を将軍にし、お金と頭を使って幕府の実権を握ります。

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