3-5富子の人生を決めた応仁の乱
「応仁の乱」のきっかけを作り、11年間も世の中を地獄と化させたことが主な原因で、富子は悪女のレッテルを貼られました。でも、我が夫の道楽で幕府の経済が破綻しかけたものの、財テクで経済を立て直した富子の功績を称えるのが妥当ではないのでは?
義政と義視を頭にした細川氏の東軍と富子派の山名氏の西軍で戦った「応仁の乱」は、西軍が優勢でした。戦況をみた義視は、兄義政を裏切り西軍に鞍替えしたのです。義政は「将軍に推した俺を裏切るとは」と怒ります。天皇に願い出て義視の将軍継承の権利を剥奪し、息子の義尚を第9代将軍に推したのです。棚から牡丹餅の富子は諸手をあげて喜びました。やっぱり悪女が正しいかも。
3-6財テクに長けていた富子
富子は、将軍となった息子の後見として政治を動かし、金を武器に人や政治を動かすようになります。人々は「守銭奴」と呼び罵るも、溺愛する息子のために思いは揺るぎませんでした。
関所を作って税金を取ったり、応仁の乱でお金が必要な大名に高利でお金を貸したりすることで、巨万の富を築いたのです。応仁の乱が終わるころ、勝元も宗全もこの世にはいませんでした。長引く戦に追い打ちをかけるように火事が起こり、飢饉や天皇居の内裏の再建などに直面します。
これをなんとかしなければ、義尚の名誉が傷つくからでした。土倉という現在の民間金融業者のようなものに、税を課して幕府の懐を豊かにしたのです。お金にものをいわせるといえば聞こえが悪いですが、武力を使わずに平穏な政を行うためにお金を利用したというべきでしょうか。
3-7「応仁の乱」後の富子
山名政豊と細川政元の間で和平が成立し、京の都を焼き尽くし11年も続いた「応仁の乱」は、引き分けで終わりました。全国の大名たちも絡んでいましたが、大内氏に四ヶ国を治めさせるなど、陰で朝廷を動かした富子の功績もあったから終息したといわれています。
富子が一身に守ってきた義尚ですが、次第に父のように遊山や酒宴におぼれるようになります。それを諫める富子に、反発するようになったのです。近江で大名の反乱がおこり、富子の静止も聞かずに出馬。戦場で病に倒れ帰らぬ人となってしまいました。息子の亡骸を京に運ぶ富子は、涙を堪え切れなかったとか。足利将軍家が蘇ることは皆無でした。世の中は戦国時代を迎え、その動向を見ながら富子はひっそりと暮らし、57歳でこの世を去っています。
3-8政子VS富子の最後は?
死ぬ間際まで人々に頼りにされた政子の方が幸せだったのではと思いますが、ゆっくりと流れゆく世の中を見ながら過ごす時期があった富子の人生も捨てたものではなかったのでは。2人ともファーストレディーとしての権力を誇示し、活躍した人生は生き甲斐のある物だったのではないでしょうか?
中世の武士階級の女性が政治に関わった2人の人生は幸せだった?
北条政子も日野富子も将軍の正室となった後に後家となり、将軍生母となるために悪女と呼ばれるようになったといえます。でも、女性が政治に関与することは、お家におけるそれぞれの役割を果たしたことといえ、お家を守り家事を取り仕切っていたからこそなし得ることができたのではないでしょうか。