3-1尼将軍となった政子
政子は、とても優しい人物だったとの記録が残っています。戦乱に巻き込まれた女性や弱者に優しく接し、その人々に合った施しを与えていたとか。結婚してから42年を迎えた自分が、家族全員を亡くすという不運を背負ったからかもしれません。頼朝の生存中にも、政子が優しい人物だったとの有名な話が残っています。兄弟で戦い逃亡中だった頼朝の弟義経と恋仲だった白拍子の静御前が捕まり、頼朝の面前で義経を思いながら舞い逆鱗に触れました。危うく殺されそうだった静御前を、政子が救ったという話です。
将軍となるべく人を朝廷からと思い、政子は使者を京へ送るも、後鳥羽上皇に断られてしまいます。誰かに幕府を守ってほしいとの必死の思いでした。頼朝の姪を母とする九条道家の3男で、僅か2歳の藤原頼経(九条頼経)に白羽の矢が立ちます。彼を4代目の将軍とし、政子は後見人となり事実上の将軍となったのです。政子は、「尼将軍」と呼ばれるようになりました。
3-2後鳥羽上皇の王政復古から「承久の乱」へ
鎌倉幕府の武士政権を正当とは認めなかった後鳥羽上皇は、10年前から王政復古を狙っていたのです。頼朝に始まり、その子頼家、実朝と立て続けに継承者が亡くなったことで、鎌倉幕府は存続の危機に陥りました。その様子から、後鳥羽上皇が鎌倉幕府から実権を取り戻すために、1221年に挙兵し「承久の乱」が始まったのです。
政子の実家である北条氏に不満を持つものを集め、武士を養成しての実行でした。源氏には恩があるも執権北条氏に反感を持っているもの、北条氏によって一族を滅ぼされたもの、北条氏に官職を奪われた者たちが集まっています。
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3-3びびる武士たちに一喝!
幕府の武士たちは朝廷貴族を敵にして戦うことにびびってしまいました。動揺する武士たちを前に政子は演説をするのです。
「私の最後の言葉と思って、心をひとつにしてよく聞きなさい!頼朝さまが朝敵を滅ぼし関東に武士政権を作ったからこそ、あなた方の官位は上り収入も増えたのです。その恩は山よりも高く海よりも深いはず。今こそ恩に報いる時です。朝廷方に就くなら、政子に矢を射よ。そして屋敷に火を放て!」
この言葉から、貴族に束縛されていた過去の苦しい時代を思い出し、皆が涙して結束したようです。幕府には19万もの武士が集まり、政子ら幕府の圧勝で戦は終わりました。
3-4お家騒動再び
北条義時が、1224年に亡くなりました。ここでまたお家騒動が勃発します。順当にいけば、政子が推していた、義時の息子で京都宮邸を監視するため六波羅にいた「泰時(やすとき)」が選ばれるはずでした。でも、義時の後妻伊賀の方が、我が子北条政村の擁立を申し出たのです。北条氏は断固阻止し、伊賀氏は手も足もでない内に伊豆へ流されています。
めでたく「北条泰時」が後を継ぐことになりました。その翌年の嘉禄元(1225)年7月10日に、病気に勝てず政子は亡くなりました。その寸前まで、鎌倉幕府は政子に静かなときを過ごすことを許さなかったとか。世間は幕府への君臨を熱望しており、最後まで頼朝の正室としての威厳を保ったといえます。
政子の頼朝への愛情が深く、その嫉妬心から頼朝には彼女以外の女性に後継者がいませんでした。その結果源家が絶え、最終的には北条氏が権力を握ります。更に「承久の乱」の後、後鳥羽上皇を隠岐へ流すよう追いやったため悪女とされました。実の子を暗殺したとの疑惑もあるんですよ!