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『三大陸周遊記』を著した旅行家「イブン・バットゥータ」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

『東方見聞録』で知られるマルコ=ポーロの西端からおよそ50年後、北アフリカのモロッコで偉大な旅行家が生まれました。彼の名はイブン・バットゥータ。65年近くの生涯のうち、30年を旅に費やした大旅行家です。彼は北アフリカから東ヨーロッパ、インド、中国、東南アジア、サハラ以南のアフリカと極めて広い地域を旅しました。イブン・バットゥータの旅と、彼が旅した時代の国や地域について元予備校講師がわかりやすく解説します。

イブン・バットゥータとはどのような人物か

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世界史の教科書にも登場するイブン・バットゥータ。いったいどんな人物だったのでしょうか。北アフリカ生まれのイブン・バットゥータのプロフィールや、彼が行った30年の旅の概要、彼が著した旅行記である『三大陸周遊記』などについてまとめます。

イブン・バットゥータのプロフィール

イブン・バットゥータは1304年に北アフリカのモロッコにあるタンジェ(タンジール)で生まれました。タンジェはジブラルタル海峡に面した港町です。当時、タンジェを含むモロッコ一帯を支配していたのはベルベル人のマリーン朝でした。イブン・バットゥータ自身もベルベル人だと考えられています。

ベルベル人は北アフリカの遊牧民で、アラブ化しイスラム教(イスラーム教)に改宗しました。彼は、この街のウラマーの一家に生まれたといいます。ウラマーとはイスラム法学者のこと。このことから、イブン・バットゥータは父親もウラマーで知識人階級の出身だったことがわかります。

タンジェに住んでいたころのイブン・バットゥータについては、ほとんどわかっていません。その理由は、彼が残した自叙伝以外に、彼のことを記した資料が発見されていないから。

わかっていることは、21歳のころに、聖地巡礼の為、タンジェの街を出たということだけです。

イブン=バットゥータの旅の最初の目的「聖地巡礼」

1325年6月、イブン・バットゥータはイスラム教の聖地があるメッカを目指して旅に出ました。聖地巡礼はイスラム教徒にとってとても重要なことです。というのも、イスラム教徒が行うべき五つの行い「五行」の一つに、聖地巡礼が掲げられていたからでした。

ちなみに、五行とは信仰告白、礼拝、喜捨(寄付のこと)、断食、そして聖地巡礼(ハッジ)の五つですね。そのうち、聖地巡礼は体力や財力があるものだけが行えばよいとされました。

聖地巡礼を果たしたイスラム教徒は、ハッジ(女性ならハッジュ)とよばれ、イスラム社会でとても尊敬されます。イブン・バットゥータはハッジを果たしたことにより、イスラム世界で旅をするうえでとても有利な扱いを受けることができました。

イブン=バットゥータの著した『三大陸周遊記』と旅の概要

イブン・バットゥータは世界史の教科書でも取り上げられる重要な人物。彼が取り上げられる理由は、14世紀の世界について貴重な記録を残したからです。

30年かけた大旅行からモロッコに戻ったイブン・バットゥータは、マリーン朝の君主の命令で旅の記録を提出するよう命じられます。イブン・バットゥータは、旅の記録を口述筆記し、記録を後世に残しました。

彼の旅の記録は『三大陸周遊記』といいます。イブン・バットゥータの旅はマムルーク朝エジプトが支配するエジプト・シリア・聖地メッカなどだけでとどまりません。

彼の旅はアラビア半島から南の東アフリカ諸国、イランやイラクを支配したイル=ハン国、北インドのトゥグルク朝、東南アジアや中国、サハラ砂漠以南のアフリカなど広範囲に及びました。

イブン・バットゥータが訪れた国や地域

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イブン・バットゥータはヨーロッパ、アジア、アフリカの三つの大陸にまたがる地域を30年かけて旅行します。彼の旅の記録は、14世紀の世界を知るうえで非常に貴重な史料となりました。ここからは、イブン・バットゥータが旅した当時の世界について、まとめてみます。

マムルーク朝エジプト

北アフリカでもっとも繁栄していたのはマムルーク朝でした。マムルクーク朝は13世紀後半から16世紀にかけてエジプトを支配した王朝です。マムルークとは、トルコ系の奴隷兵のこと。

1250年、それまでエジプトを支配していたアイユーブ朝のもとでマムルークとして仕えていた人々がマムルーク朝を建国します。

マムルーク朝の領土に到着したイブン・バットゥータは、地中海に面した港町であるアレクサンドリアで賢者に出会いました。賢者はイブン・バットゥータが世界中を旅する大旅行家になると予言します。

イブン・バットゥータはマムルーク朝の都であるカイロに一月ほど滞在したのち、シリア経由でイスラム教の聖地メッカを訪れました。

聖地巡礼を果たしたことで、イブン・バットゥータはハッジの称号を得ます。ハッジの称号は、イスラム世界を旅する上でイブン・バットゥータに様々な恩恵をもたらしました。

イランからイラクを支配したイル=ハン国

聖地メッカで一月ほどを示したイブン・バットゥータは、イラク・イラン方面へと向かいます。イラクでは第4代カリフであるアリーの廟があるナジャフを訪れました。

その後、6か月かけてペルシア(今のイラン)の各地を巡ります。イランではイスファハーンシーラーズを訪れました。ペルシア周遊を終えたイブン・バットゥータは、バグダードに到着します。

バグダードは1253年にモンゴルの将軍フラグによって破壊され、復興後も破壊の傷跡が生々しく残っていました。

その後、イブン・バットゥータは、北へと転進。フラグの子孫が建てたイル=ハン国の都となっていたタブリーズに到着します。

タブリーズはシルクロード交易の要衝として繁栄していました。イブン・バットゥータがイル=ハン国を去ったのち、イル=ハン国は崩壊し、いくつもの国に分裂します。

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