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日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」とは?はなぜ批判を受けた?わかりやすく解説

全権大使小村寿太郎の判断で条約締結

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ロシアはすでに戦闘力をなくしており、戦争終結は欠かせなかったが、財政的にすでに賠償金を支払うことはできる状況にはありませんでした。財政が破綻すれば、ロシアロマノフ王朝は崩壊してしまうことをよく認識していたのです。

そのため、戦況が不利であることは認めて、日本への遼東半島や樺太などの割譲は認め、中国東北部への進出も認めたものの、賠償金の支払いにはかたくなに認めませんでした。領土的に日本が獲得するのは中国の清王朝であり、ロシアは失うものはなく、財政的にも負担のない事項だけ認めたのです。

全権大使の小村寿太郎はそのロシアの窮状を理解しており、これ以上の交渉をおこなっても譲歩を得ることは難しいことを認識していました。かといって、これ以上戦争を継続することは日本自体も、財政的に行き詰まった状態では無理な状況にありました。そこで、全権大使になっていた小村寿太郎はついに本国に確認することなく独断で、賠償金のない講和条約に調印することになったのです。

ポーツマス条約の結果、日本国内の反応は?

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ポーツマス条約の締結のニュースはすぐに日本国内に伝えられましたが、内容に賠償金が盛り込まれなかったことが国民の期待を裏切ることになりました。そのため、帰国する小村寿太郎には新聞などは批判を集中し、国民の不満も頂点に達していたのです。

国民の不満の爆発_日比谷騒動

その結果、国民の不満は広がり、9月5日には日比谷公園に多くの市民が集まり、ポーツマス条約対する反対、批判の集会がおこなわれたのをきっかけとして、暴動になったのです。警視庁は、不穏な動きを察知して約350人の警察官を動員して日比谷公園の入り口を封鎖しましたが、暴漢が新聞社や内務大臣官邸、警察署などが暴漢に襲われ、多くの火の手があがる事態になります。日本政府は戒厳令を発布して、近衛師団が出動してようやく暴動は沈静化されました。

その後も国民の反発は収まらず、翌年1月に首相であった桂太郎が辞任、総辞職することになってしまったのです。

朝鮮半島の利権と遼東半島から中国東北部に伸びる南満州鉄道の割譲

しかし、このポーツマス条約は、陸軍にとっては朗報となりました。念願の大陸進出の足掛かりになる遼東半島と旅順からハルピンに伸びる南満州鉄道が手に入り、大陸進出が可能になったからです。

財政難の政府は、朝鮮半島に関東軍を派遣し、まず朝鮮半島の完全支配に着手し、時間をかけて朝鮮半島の植民地化を実現します。その植民地化した朝鮮半島からの搾取によって関東軍の大陸進出資金を捻出しようとしたのでした。

ポーツマス条約でロシアが賠償金を支払っていれば、日本の朝鮮半島での暴挙や日比谷騒動はなかったかもしれませんね。でも、その結果、日本ロシアの財政破綻が起こり、ヨーロッパの不安定化が起こって、第一次世界大戦は早まっていたかもしれません。

いずれにしても、日清戦争で手に入れた台湾では朝鮮半島におけるような略奪はおこなわれていませんでした。

ポーツマス条約の結果、何が起こったのか

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日露戦争で勝ち、ポーツマス条約で遼東半島と南満州鉄道を手に入れた日本はその後、軍部が台頭します。その軍部より、中国大陸への進出を進め、満州事変から日中戦争、そして第二次世界大戦へと突入し、結果的に破滅的な敗北を味わいました。一時的に独立を失い、GHQに占領されることになったのです。

日露戦争とポーツマス条約の結果は日本にとってよかったのか?

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明治時代は、それまでの江戸時代の平和な眠りから目覚めて、急激な発展を実現するとともに、軍事力をつけて海外進出を果たした時期でした。そのなかで、軍部が力を持ち、ついには第二次世界大戦に至ったのです。西洋の近代文明にふれて、資本主義という豊かさ、利益最優先の社会への扉を開いたといえ、日露戦争とポーツマス条約はその一里塚になったといえます。現在の日本は確かに豊かになりましたが、失ったものも大きかったように思う今日この頃です。

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