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日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」とは?はなぜ批判を受けた?わかりやすく解説

ロシアの「血の日曜日事件」の勃発と財政逼迫

ロシアでは、日露戦争以前から労働者、農民などを中心に帝政に対する批判と反発が高まっていました。皇帝はその反発を抑えるためにも南下政策をあきらめるわけにはいかず、日露戦争に踏み切ったのです。しかし、ロシア国内では、戦争による財政逼迫から労働者や農民の負担が高まり、帝政政府に対する反発はさらに高まることになります。

それはついに日露戦争中の1905年1月に議会開設や戦争反対などをかかげて大規模な運動につながりました。それに対して、ニコライ2世は軍隊を動員してデモを抑えようとしますが、軍が発砲して流血や死者が出ることになってしまいます。その批判が高まったため、皇帝は議会開設を認めざるを得なくなり、同時にロシア財政は破綻状態になったことにより、戦争を継続することも困難になったのです。いわゆる、「血の日曜日事件」でした。

日本の財政も破綻寸前になっていた

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一方、遼東半島の旅順要塞を攻略し、さらに日本海海戦でロシアの最強船隊のバルティック艦隊を全滅させ、有利に戦局を展開した日本でした。しかし、日本もロシアと同様、財政的に限界に達していたのです。戦費を国債などの発行でしのいでいた財政も限界に達して、これ以上戦争を継続することは難しくなっていました。

同盟国イギリスのアメリカ大統領ルーズベルトへの和平橋渡し

日本の財政逼迫に気がついていたイギリスは、ロシアもすでに交戦力がなくなっていたことから、戦争を終結させる必要を感じていました。それは、日本も同じで、外務大臣の小村寿太郎も戦争を終結する機会をうかがっていたのです。しかし、イギリスは日本の同盟国であり、間に入ることは難しいといえました。そのため、イギリスと小村寿太郎はアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに交渉の仲介を頼むことにしたのです。

当時のアメリカは、南北戦争から立ち直り、直前の西米戦争(スペイン・アメリカ戦争)に勝ち、世界の大国の仲間入りをしていました。ただし、当時のアメリカにはモンロー主義によってヨーロッパなどの戦争に介入しないという政策原則がありました。しかし、ルーズベルトは、当時のアメリカがアジアへの進出が遅れていたことをよく認識していました。そのため、中国大陸への進出を狙う日露の仲介をすることで、アメリカのアジアにおける立場を強めようとする狙いから、国内的には反対もあったものの、講和仲介の依頼を受けたのです。

日本もロシアも介入を歓迎して会議に参加

財政的に破綻状況におちいっていた日本もロシアも喜んでルーズベルトの介入提案を歓迎し、ポーツマス講和会議に参加しました。しかし、ロシアは負けたことを国内的にも認める訳にはい来ません。しかも財政が破綻状態にあったために、賠償金などの財政をさらに悪化させる取り決めには断固反対して、交渉は難航したのです。

ポーツマス条約の締結交渉は難航

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仲介役であるルーズベルトは両国に恩を売ろうといろいろな提案をおこないますが、ロシアは自国の負担となる約束ごとには首をたてに振りません。日本の全権大使となっていた小村寿太郎も国民の期待は賠償金にあることを知っており、簡単には引き下がりませんでした。そのため、交渉は難航したのです。

日本の財政破綻を知らない国民は日清戦争のように賠償金を期待していた

日本国内では、日清戦争に勝って、当時の国家予算の数倍にのぼる賠償金を獲得して、八幡製鉄所などの政府主導で重工業の産業革命が実現した記憶が新しく残っていました。ポーツマス講和会議に対しても国民の多くが下関条約同様に賠償金を期待していたのです。

当時の国民には財政的に戦争ができない状況に追い込まれていることは知らされていませんでした。

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