ローマがもたらした平和?パックス・ロマーナとは?
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パックス・ロマーナ(パクス・ロマーナ、パークス・ローマーナとも)とは「ローマの平和」または「ローマによる平和」という意味の言葉。歴史上、争いの絶えなかった地中海沿岸地域にある時もたらされた、戦いのない時代の呼称です。実際、どんな時代だったのでしょうか。どんな方法で平和を得たのか、時代背景などとともに、その理由を探りつつ、詳しく解説します。
「パックス・ロマーナ」とはいつからいつまで?
18世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボンは自身の著書の中で、古代ローマの五賢帝時代を取り上げて「人類史上最も幸福な時代」として、ラテン語で「パックス・ロマーナ(Pax Romana)」と表現しています。
この言葉が一般に広まり、この時代が特に注目されるようになりました。
現在、「パックス・ロマーナ」というと、一般的には、ギボンが表した五賢帝時代より前の時代を含めた200年ほどの期間のことを指します。
具体的には、初代皇帝アウグストゥスが帝政ローマを開いた紀元前27年から、五賢帝時代が終わる西暦180年まで。この期間、地中海沿岸地域はほぼ、ローマ帝国の支配下にありました。
ローマ帝国支配下と聞くと、なんだか物騒な感じもしますが……。
確かにそれより前の紀元前1世紀ごろまで、地中海沿岸各地では様々な大きな戦争が繰り返し起きていました。沿岸の都市や国々が絶えず争いあっていたのです。そこに強大な力を持つローマ帝国が勢力を拡大。地中海はローマがおさめることとなり、安定がもたらされました。
古代ローマの歴史をサクッとおさらい
古代ローマの建国は紀元前735年といわれています。
この時はいわゆる王政ローマ。ローマ建国の神話にも登場する初代王ロムルスから歴史が始まります。
そして紀元前509年から紀元前27年までが、王様ではなく元老院や役人たちが協力して政治を行う共和政ローマの時代。この時代は、イタリア半島だけでなく地中海全域に属州と呼ばれる領地をもつようになり、人口も急激に増加。属州との戦争や内乱など、争いの絶えない時代でもありました。
特に共和政ローマ末期は、ユリウス・カエサルの一強独裁政治の色が強くなります。カエサルが暗殺された後、カエサルの遺言により後継者として指名された養子のオクタウィアヌスがライバルたちを撃破。共和政の形を残しつつ、オクタウィアヌスのもとに権力が集中する形となり、ここから帝政ローマがスタートします。
オクタウィアヌスはアウグストゥス(尊厳ある者)の称号を名乗り、事実上、皇帝に。これが紀元前27年のことです。
属州や隣国との戦争や侵攻、内部の派閥争いなど、争いが絶えず多くの血が流れた王政・共和政時代を経て始まった帝政ローマ。開けてみるとそこには、それまでとは違う、平和な日々が待っていました。
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パックス・ロマーナの間も争いはあったのか?
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平和がもたらされた、とはいっても、争いが完全に皆無だったわけではありません。
近隣国との紛争や、ローマ内部での派閥争いなど、争いはたびたび起きていました。
それより前の共和政の時代に比べれば……と解釈したほうが賢明かもしれません。
即位した皇帝が不審な死(暗殺か?)を遂げることもたびたびありましたので、すべてにおいて平和と呼んでよいものかどうか……とにかく、広大な領地と人口を考えれば、争いは少ないほうだと考えるべきでしょう。
争いが少ない分、貿易も盛んにおこなわれるようになります。文化や芸術が花開き、ローマは大いに繁栄しました。
暴君ネロも追い出して平和を維持
アウグストゥスの死後は、クラウディウスという一族の面々が代々皇帝の座に就く時代が40年ほど続きます。
クラウディウス一族最後の皇帝が、第5代皇帝ネロ。暴君として歴史に名を刻んだあの皇帝です。
ネロも最初のころは学習に勤しみ、よい政治を行っていたらしいのですが、だんだん奇行が目立つようになります。芸術活動に熱中して政治がおろそかになったり、キリスト教徒を迫害したり、補佐官を殺したり、もうめちゃくちゃ。周囲から皇帝の地位をはく奪され、追い詰められて68年に自殺してしまいます。
世襲も良し悪しかな……ということで、元老院から推挙された元軍人のガルバが次期皇帝に即位。その後は、比較的短いスパンで皇帝が入れ替わる時代が続きます。
皇帝が暗殺されたり自殺したり、なんだか物騒な感じもしますが、それでも比較的、ローマの町は平和だったようです。