ユグノー戦争の始まり
1560年、ヴァロワ朝の国王フランソワ2世が死去すると、弟のシャルル9世がわずか10歳で即位しました。シャルル9世はまだ幼く、病弱でもあったので国政は母のカトリーヌ=ド=メディシスが担当します。
摂政となったカトリーヌは対立が続くカトリックとユグノーのバランスを取ろうとしました。カトリーヌ自身はカトリックの敬虔な信者で、その点ではギーズ公と同じくカトリック支持。
しかし、大貴族であるギーズ公の力が強くなりすぎるのを恐れたカトリーヌは、ユグノーであるブルボン家のアントアーヌ(アンリ4世の父親)を王国総代官に任じ、同じくユグノーのコンデ公に恩赦を与えました。こうしたカトリーヌの動きはギーズ公の反発を招きます。
ユグノーとカトリックの代表者が妥協点を見出そうと話し合いをしましたが、双方譲らず。対立を解消できません。1562年3月、ギーズ公の部下がシャンパーニュ地方のヴァシーで礼拝中のプロテスタントを襲撃し殺害した事件(ヴァシーお虐殺)がきっかけとなり、ユグノー戦争が始まります。
サン=バルテルミの虐殺
ヴァシーの虐殺以来、内戦状態が続いていたフランスでは、摂政のカトリーヌがユグノーとカトリックの対立を解消しようと努めます。カトリーヌはユグノーの指導者であるナバーラ王アンリとシャルル9世の妹であるマルグリットの結婚を提案。アンリも結婚に同意します。
1572年8月17日、パリでアンリの結婚式が行われ、コリニー提督をはじめとするユグノー貴族が参列しました。ところが、8月24日、ギーズ公の配下がコリニー提督を暗殺。事態の急変に動揺した国王シャルル9世は宮廷内のユグノー貴族を多数殺害しました(サン=バルテルミの虐殺)。
ナバール王アンリは宮廷にとらわれます。アンリは強制的にカトリックに改宗させられましたが、1576年に宮廷から逃走。ユグノーに復帰して戦いをつづけました。
三アンリの戦いとスペインの干渉
ナバール王アンリの脱出後、フランスでは3つの勢力が対立抗争する時代となります。
ユグノーの盟主はブルボン家のナバール王アンリ。カトリック貴族同盟の盟主は強硬派のギーズ公アンリ。シャルル9世の死後、王位を継いだフランス王アンリ3世。3勢力のトップがいずれも「アンリ」だったことから、三アンリの戦いとよばれました。
周辺国もフランスの内乱に無関心ではいられません。1580年、熱心なカトリック信者であるスペイン国王フェリペ2世は、ギーズ公らカトリック貴族たちを公然と支援します。
国王アンリ3世はスペインとギーズ公の連携に危機感を抱き、ギーズ公アンリを暗殺させました。ところが、今度はアンリ3世がカトリック貴族同盟によって暗殺されてしまいます。事態は泥沼化し、収拾がつかなくなりました。
ナントの王令とその後のフランス
アンリ3世の死により、ヴァロワ朝は断絶しました。1589年、王位継承権第一位となったブルボン家のアンリはフランス王に即位、アンリ4世となります。アンリ4世はフランスで主流派だったカトリックの支持を得るため改宗しました。1598年、アンリ4世はナントの王令を出してユグノー戦争を終結させます。内戦終結後、アンリ4世は国内再建に乗り出しますが、狂信的なカトリック信者によって暗殺されました。
アンリ4世の即位とカトリック改宗
1589年、国王アンリ3世が死去しました。これに伴い、王位継承権第一位だったブルボン家のアンリがフランス王アンリ4世として即位します。アンリ3世の死によりヴァロワ朝は断絶。アンリ4世以後はブルボン朝となります。
とはいえ、アンリ4世は少数派のユグノーで、カトリックが多数を占めるフランスでは不利な立場でした。フランスの首都パリは強固なカトリックの地盤であったため、アンリ4世の入城を認めません。
また、カトリック貴族同盟はアンリ4世の即位を認めず、マイエンヌ公シャルルを盟主として抵抗を続けました。アンリ4世は首都パリに入城するためカトリックに改宗します。
カトリック改宗によりアンリ4世はフランス国民の支持を得るようになりました。パリ入城後、カトリック側の都市や貴族が相次いでアンリ4世に帰順。内戦は終息に向かいます。
ナントの王令
アンリ4世はカトリックに改宗することで王位の正当性を得ることができました。しかし、ユグノーたちは改宗したアンリ4世に対し反発を強めます。アンリ4世はカトリックとユグノーの妥協点を探しました。
1598年、アンリ4世はナントの王令を発布します。内容は、ユグノーに礼拝の自由を認めることやユグノーに公職に就く権利を与えることなど。これにより、ユグノーは信仰の自由を認められました。
ただし、ユグノーであっても教会に払う十分の一税は納めなくてはなりません。ユグノーたちが自由に礼拝できる都市も指定されていました。ナントの王令は完全な信仰の自由を保障するものではなかったのです。ナントの王令は条件付きの信仰の自由だったと考えるとよいでしょう。