戦争の始まり
オーストリアとの戦争が回避できないと考えたプロイセン王フリードリヒ2世は、バイエルン、ザクセン、フランス、スペインと手をくみ、開戦の準備を整えました。
1740年12月、フリードリヒ2世はオーストリア側の不意を突き、シュレジェン地方を占領します。プロイセン軍の奇襲を知ったマリア=テレジアは直ちに、シュレジェン地方奪還の軍を派遣しました。
1741年4月、両軍はモルヴィッツで衝突します。兵力はほぼ互角でしたが、火力と訓練度に勝るプロイセン軍はオーストリア軍を撃破しました。この戦いは、プロイセン王国軍の強さを周辺諸国に認識させ、ハプスブルク家に反感を抱いていた諸国をプロイセンの味方につけることに役立ちます。
マリア=テレジアは、植民地問題でフランスと対立していたイギリスを味方につけました。しかし、味方となったイギリスは、資金援助はしてくれるものの、直接的な軍事支援はしません。
マリア=テレジアによるハンガリー議会の説得とマリア=テレジアの反撃
周辺諸国が敵に回り、各地を反ハプスブルク連合軍に占領され、マリア=テレジアは窮地に立たされました。事態を打開するため、マリア=テレジアはハンガリーの議会に乗り込みます。
ハンガリー王位は、ハプスブルク家が相続していました。しかし、ハプスブルク家がドイツ人であるのに対し、ハンガリーは異民族のマジャール人の国。同君連合とはいえ、オーストリアとは温度差がありました。
マリア=テレジアはハンガリーの身分制議会で貴族たちに救援を訴えます。喪服を着て、のちにヨーゼフ2世として即位する乳飲み子を抱いた美しい女王マリア=テレジアは、プロイセンによる非道な侵略に立ち向かってほしいと演説しました。
数か月にわたる交渉の末、ハンガリー貴族の支援を取り付けたマリア=テレジアは崩壊寸前のオーストリア軍を立て直しました。
戦争の拡大と長期化
オーストリア継承戦争で反ハプスブルク家の立場をとったバイエルン選帝侯は、フランスの後ろ盾を得て上オーストリアやボヘミアを制圧。1742年に神聖ローマ皇帝カール7世となりました。
ハンガリー軍の支援を取り付けたマリア=テレジアは、バイエルン・フランス連合軍と交戦。上オーストリアとボヘミアを奪還します。これにより、マリア=テレジアはボヘミア王として即位することができました。
スペインも1744年に戦争に参加しましたが、オーストリアはサルデーニャ王国を味方につけ、スペインの侵攻を抑えます。
カナダやインドではイギリス軍とフランス軍が交戦状態になりました。オーストリア領を分割し、各国で分け合おうという当初の目論見は崩れ、戦争は長期化します。
ドレスデンの和約とアーヘンの和約
1745年、オーストリアとプロイセン、ザクセンの間でドレスデンの和約が結ばれます。これにより、オーストリアはプロイセンにシュレジェン地方を割譲することが決まりました。また、神聖ローマ帝国の皇帝位にはマリア=テレジアの夫であるロートリンゲン公フランツが即位することで合意します。
ハプスブルク家に対抗して神聖ローマ皇帝となったバイエルン選帝侯のカール7世は、オーストリアとの戦争に敗れ、1745年1月に死去していました。カール7世の跡を継いだバイエルン選帝侯マクシミリアン3世はフランツ1世の皇帝即位を承認し、オーストリアと講和します。
1748年、オーストリアはフランス、スペイン、イギリスなどとの間でアーヘンの和約を結びました。これにより、マリア=テレジアのハプスブルク家相続と、プロイセンによるシュレジェン地方の領有などが確定し、オーストリア継承戦争は終結します。
オーストリア継承戦争の影響
オーストリア継承戦争をのりきり、ハプスブルク家の家督を相続したマリア=テレジアは、プロイセン王フリードリヒ2世に奪われたシュレジェン地方の奪還を目指しました。マリア=テレジアはカウニッツ伯爵を帝国宰相に任じ、フランスやロシアと協力関係を築き上げます。ブルボン朝と手を組むことに成功したマリア=テレジアは、フリードリヒ2世に復讐戦を挑みました。
マリア=テレジアの外交革命
オーストリア=ハプスブルク家にとって、フランス王家は歴史的な敵国でした。しかし、プロイセンに対抗するためにはフランスの協力が必要不可欠です。マリア=テレジアに外交を任されたカウニッツ伯爵はルイ15世の寵姫であるボンパドゥール夫人と接触。ルイ15世を動かすことに成功しました。
それまで、敵国同士だったオーストリア=ハプスブルク家と、フランス=ブルボン家が手を結んだことにヨーロッパ中が驚きます。このことを、外交革命といいました。
また、カウニッツはロシアの女帝エリザヴェータも動かし、オーストリアと同盟を結ばせます。オーストリア、フランス、ロシアという3国に囲まれたプロイセンのフリードリヒ2世は危機的状況に陥りました。