宗教改革への対応
1517年、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン=ルターは、教会の行う免罪符の発行に疑問を感じ、『九十五カ条の論題』を発表。これにより、宗教改革が始まりました。
1521年、神聖ローマ皇帝カール5世は、ヴォルムス帝国議会を開催しルターを召喚します。カール5世は、ルターに対し自説を撤回するよう迫りました。しかし、ルターは教皇や宗教会議である公会議の権威を認めず、自説の撤回も拒否します。
ヴォルムス帝国議会はルターを異端と断定し、帝国追放の処分とルターの著作の販売・購読を禁じる決定を行いました。
一方、ルターはヴォルムス帝国議会後にザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれ、聖書のドイツ語訳などをおこないます。ザクセン選帝侯などルターを支持する諸侯は団結し、カール5世と対決する姿勢を示しました。
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トリエント公会議とアウクスブルクの和議
1546年、教皇パウルス3世はトリエント公会議を開催しました。公会議の開催を要請したのは皇帝カール5世でした。カール5世は、帝国内の宗教対立を解きたいと考えていたからです。
公会議は1546年から1563年まで、断続的に開催されました。会議ではルター派などのプロテスタントとカトリックの和解が目指されましたが、妥協点を見いだせません。
18年にわたる公会議の中で、最終的に決まったのは次の二つです。一つ目は、カトリック内での教皇の至上権が再確認されたこと。もう一つは、宗教改革に対抗する対抗宗教改革の実施です。
1555年、カール5世は神聖ローマ皇帝としての職務を弟のフェルディナントに任せて休養します。同じ年、フェルディナントはアウクスブルクで会議を開き、ルター派諸侯とアウクスブルクの和議を結びました。これにより、ルター派の信仰が正式に認められます。
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ヴァロワ朝フランスとの戦い
カール5世は神聖ローマ皇帝として宗教改革に対応する一方、ヨーロッパ一の領土を持つハプスブルク家の当主として、ヴァロワ朝フランスと激しい争いを繰り広げます。戦いの主な舞台となったのはイタリアでした。スペインとドイツの両面から挟み込まれ、不利な立場に置かれたフランスはオスマン帝国と手を結び、カール5世を圧迫します。
イタリア戦争
15世紀後半、イタリア半島はいくつかの小国に分裂していましたが経済的には豊かでルネサンスの中心となっていました。15世紀末、フランスはイタリア半島北東部のミラノを支配下に置きイタリア全土の支配をもくろみます。
これに対し、ハプスブルク家のカール5世は北東イタリアのロンバルディア地方と、南部のナポリからイタリアに進出。イタリアの支配権をめぐってフランスと激しく争いました。この一連の戦争のことをイタリア戦争といいます。特に、カール5世とフランス王フランソワ1世の戦いは激しいものでした。
1521年、フランソワ1世はイタリア半島の南北に陣取るハプスブルク勢力を駆逐するため、全面的に攻勢をかけます。しかし、パヴィアの戦いでフランソワ1世が敗れ捕虜となったことから、戦争はカール5世の勝利に終わりました。
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ローマの劫略(ごうりゃく)
パヴィアの戦いの後も、フランソワ1世はイタリア進出をあきらめていませんでした。メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、イタリア半島の南北がハプスブルク家に支配されることに対し、強い警戒感を持っていました。教皇はフランソワ1世と手を結び、ハプスブルク家の排除を画策します。
これを知ったカール5世はスペイン兵とドイツ兵を主力とする部隊をローマに派遣しました。殊に、ドイツ兵は勇名高いドイツ人傭兵部隊の「ランツクネヒト」。彼らは皇帝から給与をもらい戦闘に従事していましたが、給与が遅配していました。皇帝軍の総司令官が戦死すると、統制がとれなくなった皇帝軍はローマ各所を略奪します。
この事件をローマ劫略(サンコ・ディ・ローマ)といいました。1529年、クレメンス7世とカール5世は和解しますが、このころを境にイタリアルネサンスは衰退します。