ドイツヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

西ヨーロッパの覇者「カール5世」を元予備校講師がわかりやすく解説

フランスとオスマン帝国の同盟

イタリア戦争に敗れたフランソワ1世は、カール5世に対し復仇するチャンスを狙っていました。フランソワが目を付けたのが東方で急速に勢力を拡大させていたオスマン帝国です。オスマン帝国はスルタンのスレイマン1のもと、最盛期を迎えていました。

バルカン諸国を屈服させたオスマン帝国軍は北上を続け、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンに迫りつつあります。フランソワ1世は、なんと、異教徒であるオスマン帝国と手をくみ、カール5世を挟み撃ちにしようと画策しました。

フランスとオスマン帝国は友好関係となり、フランス商人はオスマン帝国領内で居住するなどの通商上の特権を認められます。特権はスルタンの恩恵としてフランス人に与えられました。

オスマン帝国との戦い

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カール5世は、国内ではルター派の諸侯と宗教戦争を戦いつつ、フランスとイタリア戦争を戦っていました。カール5世の前に新たに立ちふさがったのがオスマン帝国です。スレイマン1世は各地を征服し、オスマン帝国の最大領土を築きました。そして、ついにオスマン帝国軍はハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲。さらには、プレヴェザ海戦で東地中海の制海権を奪います。

スレイマン1世によるオスマン帝国の領土拡大

16世紀中ごろ、ちょうどカール5世が在位していたのと同じころ、オスマン帝国のスルタンとして帝国の最盛期を築き上げたのがスレイマン1でした。スレイマン1世はセルビアのベオグラードを陥落させ、バルカン半島に確固たる支配権を確立します。

1523年には、ムスリム商人の安全を脅かしていたロードス島の聖ヨハネ騎士団を攻撃し、ロードス島から追放することに成功しました。これにより、東地中海での制海権を獲得します。

1526年、後顧の憂いをたったスレイマン1世はハンガリーに攻め込みました。ハンガリーは神聖ローマ帝国とベーメンの支援を受け、モハーチでスレイマン1世を迎え撃ちます。モハーチの戦いの結果はスレイマン1世の勝利。スレイマン1世はハンガリーの大半を支配するようになりました。

第一次ウィーン包囲

モハーチで勝利したスレイマン1世の次の目標はハプスブルク家の本拠地であるウィーン。1529年、スレイマン1世は大軍を派遣してウィーンを包囲させます。スレイマン1世がウィーンに派遣したのは、最精鋭部隊のイェニチェリとスルタン直属の騎兵部隊を中心とする12万の大軍でした。

対する神聖ローマ帝国軍はカール5世の弟であるフェルディナント率いるおよそ5万。両軍はウィーン周辺で攻防戦を繰り広げました。カール5世はルター派の活動を容認し、オスマン帝国への対応を優先します。

9月下旬に始まった包囲戦は約一か月続きました。結局、冬の訪れとともに補給が困難となっていたオスマン帝国軍は撤退を開始します。

カール5世は本拠地を失いかねない大きな危機を脱しました。その後、カール5世は神聖ローマ帝国内の宗教問題でルター派の容認を取り消すなど、強気な対応に転じます。

プレヴェザ海戦

カール5世はスペイン国王としてはカルロス1です。カールは、スペイン王としてもオスマン帝国と戦いました。それが、プレヴェザ海戦です。

1538年、オスマン帝国の海軍がギリシア西海岸のプレヴェザでスペイン・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国の連合艦隊と戦いました。プレヴェザ海戦で活躍したのはオスマン帝国海軍を指揮した「赤ひげ」こと、海賊バルバロス=ハイレッディン

ハイレッディン率いるオスマン帝国艦隊はキリスト教徒連合艦隊の足並みがそろわず、統制が取れていないことに付け込み、キリスト教徒連合艦隊を急襲します。

体制が整う前に急襲されたキリスト教徒連合艦隊は本格的な戦闘をすることなく撤退。以後、数十年にわたり地中海の制海権はオスマン帝国のものとなりました。

広大な帝国を支配したカールは、弟に後事を託して修道院に引退した

1555年、カール5世は神聖ローマ皇帝としての職務を弟のフェルディナントに託し、自らは事実上引退。翌年には、皇帝位を弟に譲りました。一方、スペインの王位と領土は子のフェリペに譲ります。これにより、広大な領土を支配下ハプスブルク家は、ドイツを中心とするオーストリア=ハプスブルク家とスペインハプスブルク家に分裂することとなりました。領土を二つに分けたのは、カール5世自身が広大すぎる帝国を一人で統治するのがいかに困難か、身に染みて知っていたのかもしれませんね。

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