信長との関係が悪化する
しかし、義昭と信長の間には、徐々にずれが生じ始めていました。
義昭は幕府の再興と権力強化が目的でしたが、信長の最終目標は天下統一。そのために足利将軍家という威光を利用したかっただけだったのです。
そして信長は、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」というものを義昭に提出し、承認させました。ここには、大名に手紙を出すときにはいつも信長に報告することや、これまでに義昭が大名に出した命令を無効にすること、信長自身は義昭の同意を得ることなく自分の判断で行動しても良いことなど、将軍の権力を制限するものばかりが並べられていました。
義昭は、信長の力の前にこの掟を承認しました。しかしそれを守らないことも多く、こうして両者の関係は悪化していったのです。
織田信長との対立から将軍の地位を追われ、室町幕府は滅亡する
信長への対抗策として、義昭は反信長の武将たちに呼びかけ、「信長包囲網」を結成しました。しかし、ほどなくそれも瓦解し、義昭はついに京都から追放されてしまいます。その後、毛利輝元を頼った義昭ですが、京都に戻ることはできず、天下は信長から豊臣秀吉へと推移し、ついに義昭は将軍の地位を降りることを決めました。最後まで激動だった彼の人生のまとめです。
各大名に呼びかけて「信長包囲網」を結成する
義昭は、上杉謙信や毛利輝元、信長と敵対する本願寺勢力、武田信玄などに密かに書状を送り、信長に対する「信長包囲網」を形成しようと画策し始めました。ここにはやがて浅井氏や朝倉氏なども加わり、信長に戦いを仕掛けて苦境に陥らせるなど、大きな勢力となっていきます。
こうした義昭の動きに対し、信長は義昭への不満や批判を書き連ねた「17条の意見書」を提出しました。これが引き金となり、義昭はついに挙兵し、信長に対抗するという姿勢を明確にしたのです。東からは武田信玄が軍勢を率いて上洛を開始し、信長包囲網が威力を発揮する時が間近に迫っているように見えました。
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信長への度重なる反抗も、失敗に終わる
ところが、都に向かっていた武田信玄が途中で陣没してしまい、包囲網には早くもほころびが生じてしまいます。
すでに都で挙兵してしまった義昭は、籠城して信長の軍勢に抵抗しますが、それにかなうわけもなく、やがて和睦が成立しました。信長の方でも、さすがに将軍の命を奪うということまではしませんでした。
しかしそれからたったの3ヶ月後、義昭は懲りずに再び挙兵したのです。信長にここまで敵対心を示すということは、ふつうの武将なら負ければ確実な死を意味していました。
結果、義昭は信長に降伏し、死は免れましたが、京都から追放されてしまいます。そして信長の天下がやって来たのでした。
各地を転々とした「貧乏公方」
京都を追われた義昭は、各地を転々としました。追放されたとはいえ将軍ですから、どこに行っても丁重に迎えられたそうです。かつて、兄が暗殺された直後にも各地を放浪した経験があった義昭のことを、いつしか世間では「貧乏公方」と噂したと伝わっています。
そして最後に義昭が頼ったのは、中国地方で一大勢力を誇る毛利輝元でした。彼が備後の鞆(とも/広島県福山市)に居所を得たことから、そこは「鞆幕府」と呼ばれるようになります。
そこで復活を期した義昭ですが、頼みの綱の上杉謙信が亡くなり、本願寺は信長に降伏し、武田氏は滅亡してしまいました。
これでは、京都への復帰はのぞめません。義昭の希望はほぼ断たれてしまいました。
将軍を辞し、秀吉の庇護のもと余生を過ごす
しかし、天正10(1582)年、本能寺の変が起きて織田信長が明智光秀に敗れ、自害を遂げます。この時は義昭にとって絶好の上洛チャンスでしたが、すでに信長の後釜として豊臣秀吉が台頭しつつあり、結局うまくはいかなかったのです。
そして、秀吉は関白の座につき、天下統一を成し遂げました。
すでに復帰のめどが立たなくなった義昭は、ついに将軍職を辞し、天下を秀吉に譲ったのです。室町幕府の終焉でした。
秀吉は、義昭を冷遇することはありませんでした。名目上は1万石を与えましたが、待遇はそれ以上のものだったと伝わっており、義昭はたびたび秀吉のそばで話し相手となるなど、穏やかな余生を過ごし、慶長2(1597)年に61歳の生涯を閉じました。
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