ライバル・足利義栄に先を越されてしまう
越前朝倉氏は強力な武将だったため、義昭は自身の野望の実現に心強い援軍を得たつもりでした。しかし、肝心の朝倉義景は、先祖たちのような勇猛果断さを持ち合わせず、なかなか義昭を支援して上洛をしようという態度を見せてくれませんでした。
無為無策のまま時間はどんどん過ぎていきます。さすがに義昭も焦り始めました。加えて、上杉輝虎も武田信玄との争いや内紛の鎮圧に忙しく、義昭のために兵を出す余裕がなかったのです。
しかもそんな中、三好三人衆に担がれたライバル・足利義栄が14代将軍の座に就いてしまったのでした。
いったい義昭はどうなるのでしょうか。
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織田信長の協力を得て上洛を果たし、ついに将軍となる
ライバルに先を越されてしまった義昭。血筋から言えば義昭の方が圧倒的に将軍としてふさわしかったのですが、こうなってはどうしようもありません。
しかし、彼に心強い味方が現れます。朝倉義景の家臣・明智光秀(あけちみつひで)でした。
光秀は実に有能な人物で、彼が織田信長と義昭の間に入り、なんとか信長が義昭を連れて上洛してくれるようにと奔走してくれたのです。
そしてついに、信長が浅井長政(あざいながまさ)と共に、多くの兵を連れて義昭を護衛し、上洛してくれることになりました。
信長の力のおかげで義昭は三好三人衆を駆逐することに成功し、ちょうどそのころ足利義栄も亡くなったため、京都に入った彼はついに15代将軍に就任することができたのです。
将軍家の血筋として将軍の地位に就き、失われかけた将軍の権威を復活させようと意気込む義昭。
しかし、室町幕府の将軍は15代までということをご存知方も多いことでしょう。彼は、自分が最後の将軍となることに、まだこの時は気づいていませんでした。
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信長との蜜月と対立
義昭は将軍となり、幕府の復権のために動き始めました。信長の助けもあって幕府復興を成し遂げた義昭のもとには、多くの武将たちがこぞって挨拶に来たほどだったのです。しかし、義昭と信長の考えの違いは、やがて両者の対立を生むことになるのでした。
将軍の権威復活を狙う
将軍となった義昭は、亡き兄・足利義輝と同様、衰えた将軍の権威の復活を狙いました。最後の将軍ということでどこかぼんやりとしているような印象を受けがちな彼ですが、実に精力的に動いていたのです。
義栄を支持していた有力公家・近衛前久(このえさきひさ)を追放し、管領・細川氏や畠山氏を再び重用するなど、自身の権力を安定させるために尽力しました。また、永禄の変の後散り散りとなっていた官僚集団・奉行衆(ぶぎょうしゅう)を復活させ、往時の室町幕府の姿を取り戻そうとしたのです。
足利将軍家が復活を遂げようとしている様子を目にした各地の武将たちは、将軍家というブランドの前に、次々と義昭に領地や黄金を献上しました。
大ピンチ・本圀寺の変と信長との蜜月
しかしこうした中で、駆逐されたはずの三好三人衆が巻き返しを図って来ます。彼らは義昭が御所としていた本圀寺(ほんこくじ)を襲撃し、義昭の命を奪おうとしたのです。
このままでは、永禄の変で暗殺された兄と同じ道を歩むこととなってしまいます。
大ピンチに陥った義昭ですが、兄の頃から仕えていた家臣や織田勢がすんでのところで駆け付け、難を逃れることができました。
そこで信長は義昭の御所を強化することを決断し、城郭のような邸宅を整備します。堀と石垣に囲まれた巨大な御所は、かつての足利将軍家の復活の象徴となりました。その威容の前に武将たちはこぞって参勤し、ここに室町幕府は復活を遂げたのです。
ここまでご紹介してきたとおり、義昭と信長は実に親密な関係を築いてきました。3歳しか年齢が変わらないのに、義昭は信長を「室町殿(義昭のこと)御父」と呼ばせ、両者は蜜月の時期を築いたのです。