日本の歴史江戸時代

5分でわかる禁中並公家諸法度!江戸幕府と朝廷の関係までわかりやすく解説

3-14.第十七条【上人号】

天皇から、徳のあるお坊さんに与えられる「上人(しょうにん)」の称号に関しても、むやみに与えず熟慮してからにせよと釘を刺しています。

4.あまりの幕府の横槍に天皇の不満が爆発!

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戦国時代が終わってからまだ間もない頃だったせいか、この頃の天皇は反発心が旺盛な感じがしますね。幕府の横槍に不満を爆発させた後水尾天皇もそんな一人でした。そして「紫衣事件」が起こるのです。

4-1.幕府からの苛烈な圧迫を受ける後水尾天皇

後水尾天皇ほど幕府から嫌がらせや、圧迫を受け続けた天皇はいないでしょう。それらのいきさつと、後に天皇が不満を爆発させた紫衣事件を見ていきましょう。

天皇が即位後、徳川家が朝廷に影響力を及ぼそうと、2代将軍秀忠の娘、和子を天皇の后(きさき)として入内させようとしました。しかし天皇にはすでに皇女がいたことが発覚します。

「これは話が違う!これから将軍の娘が入内しようという時に何たること!不行跡極まりない!」

幕府は執拗に追求を続け、天皇側近や近臣らを次々に辞めさせ、地方へ流罪にしてしまったのです。天皇は憤懣やるかたありません。ただでさえ朝廷のやることなすことに口を挟むだけでなく、ただの臣下である徳川家にここまで好き勝手にされるとは…歯ぎしりするしかありませんでした。

4-2.後水尾天皇の不満が鬱積

これまでのいきさつで、天皇の胸中はさぞかし複雑だったことでしょう。このままでは天皇としての存在価値がない。後水尾天皇は譲位を決意して周囲に伝えますが、それすらも幕府は許そうとしません。

「私は自分の意思で譲位することも叶わぬのか…」

こうして天皇は沸き上がる不満や鬱屈を飲み込んだまま、徳川家から和子を迎えたのです。

4-2.そして起こった紫衣事件

天皇から徳の高いお坊さんに授けられる紫衣という衣があります。これは天皇のみに許された特権で、朝廷の貴重な収入源でもありました。

しかし禁中並公家諸法度の第十六条に規定されている通り、「みだりに紫衣を授けてはならない」とされていました。ところが幕府に対して不満を募らせていた後水尾天皇は、そんな規定もどこ吹く風。独断で十数人の僧たちに紫衣を授けていたのです。

1627年、幕府はついに紫衣の勅許を無効にし、これまで天皇が授けてきた紫衣すら取り上げたのでした。これに対して朝廷は強硬に反対。沢庵宗彭(たくあん漬けの創始者ともされる)をはじめ高僧たちも同調します。

4-3.幕府側の強硬な態度

この事態に、さすがに幕府側が折れるかと思いきや、逆に沢庵ら反対者を流罪に処してしまいました。これには天皇はじめ朝廷も衝撃を受けたことでしょう。

本来なら敬われるべき天皇がこれだけないがしろにされ、朝廷と幕府との立場が逆転してしまったわけですから。徳川幕府の力の程を見せつけられた朝廷は、ますます権威を失墜させていくことになりました。

政治を幕府に任せた以上は、天皇であろうが朝廷であろうが法に従うべき。という幕府側の強烈な決意の表れだといえるかも知れません。

4-4.幕府側のあまりの不遜さに怒りを覚える

朝廷にとってさらに衝撃的な出来事が起こります。徳川3代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切っていた春日局が宮中に参内し、後水尾天皇への拝謁を望んだからです。

春日局は、元は斎藤利三という武士の娘で、とても御所に昇れる身分ではありません。しかし将軍家光の乳母という地位を利用し、幕府の力をバックに強引に推し進めようとしたのでした。

公家の三条西実条と形式上の縁組をし、体裁を整えはしましたが、彼女は無位無官も同然。後水尾天皇からすれば、はらわたが煮えくり返る思いだったことでしょう。

「本来なら御所の庭にも入れぬ身分卑しき者が、なぜ帝たる朕(ちん)と対面できようか。もはや世も末であろう。」

4-5.後水尾天皇、法度の及ばない上皇となる

この二つの事件によって後水尾天皇の決心は固まりました。どうせ「天皇をやめる」と言って譲位を望めば幕府が反対してくるだけのこと。ならば何も言わずに譲位してしまえ!とばかりに、本当に天皇をやめてしまったのです。

次の天皇は、後水尾天皇と和子との間に生まれた娘が即位し、明正天皇となりました。いわば徳川家の血が入った天皇が誕生したということ。

しかし事は徳川の思い通りになりませんでした。後水尾は上皇となって権力を持ち続けようとしたのです。ちなみに禁中並公家諸法度は、【天皇と朝廷】を縛るための法律でしたから、上皇になった後水尾には関係ありません。

徳川の娘だったはずの和子も、後水尾上皇のやり方に肩入れし、幕府との確執は続いていきました。結局、幕府側も「このままではまずい」と考えたのか、朝廷と融和政策を取ることに舵を切ったのです。

幕末、ついに立場が逆転

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江戸時代の末期になって幕府の力が衰えてくると、ついに朝廷と幕府の関係が逆転することになりました。相次ぐ外国の要求に対して弱腰になっていた幕府に対して、朝廷が強硬に攘夷(外国を排除すること)を主張したからです。紆余曲折の後、やがて徳川家は朝敵のレッテルを貼られる始末となり、明治維新を迎えることになりました。

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明石則実