2-2.武士政権が「幕府」と呼ばれるようになるのは後世のこと
今でこそ「幕府」だとか「藩」というふうに普通に呼んでいますが、このような名称となったのは幕末の頃らしいのです。幕府とはつまり将軍のいる建物のことを指す言葉で、政治を行う組織をそう呼んでいたわけではありません。
ちなみに当時、幕府をどのように呼んでいたかというと、鎌倉時代は「鎌倉殿」や「関東」、室町時代は「室町殿」、江戸時代に入ると「ご公儀」といった具合でした。
時代劇などでは普通に「○○藩」などと呼んでいますが、それは間違いです。実際には「○○家」という呼び方が普通でした。
2-3.幕府は、朝廷から委任されたもの
鎌倉幕府が滅びたあと、天皇が政治の実権を握った時期が2年ほどありました。しかし見事に大失敗し、朝廷に政治のノウハウがないことが明らかになりました。そこで歴代天皇は、武士いわゆる幕府に政治を委任することとなったのです。
代わりに天皇並びに朝廷は、古くからの儀礼や祭礼を通して国の安寧を願う立場となりました。国民の心の拠りどころになろうとしたわけですね。
武家政権は室町幕府~江戸幕府と続いていくわけですが、征夷大将軍となって幕府を開くことができるのは「源氏」でなければ不可能でした。そもそも征夷大将軍を復活させて最初に幕府を作ったのが、源頼朝だったからですね。
ちなみに豊臣秀吉の場合は、源氏出身でも何でもない農民の出身だったので、結局幕府を作ることはできませんでした。
2-4.幕府の言いなりとなる朝廷
豊臣秀吉が亡くなった直後から、徳川家康は朝廷工作を始めるのです。一時的に秀吉の養子となっていた皇太子の即位に反対して取りやめさせ、幕府を開いてからは、京都所司代を置いて朝廷の動きを監視させました。
のちに後水尾天皇となる政仁親王に、徳川秀忠の娘和子を無理やり入内させ、天皇家の血筋に徳川家の血が入ることを画策しました。これは500年も前に平清盛がおこなって以来のことでした。
その後も朝廷が持っていた「官職の叙任権」や「元号改元の権利」などを次々に剥奪していくのです。まさに幕府の言いなりとなっていく朝廷。これではどちらが偉いのかわからなくなりますね。
「皇室や朝廷は何もしなくていい。黙ってお祭りだけやっていれば良いのだ。」と言わんばかりです。
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2-5.幕府が朝廷を抑え込もうとした理由
長く続いた戦乱によって、人々の心は荒れ果てていました。江戸幕府を開かれた頃、人心を安定させるために取ろうとした政策が「儒教政策」でした。
儒教の教えをもって社会秩序を正しくし、人々が安心して暮らせる世を作ることが大きな目標だったのです。そのためには万民が法を守り、秩序をもって生きていくことが大事となります。
そこで幕府は、庶民だけでなく自分たち武士に対しても厳しい法度を定め、それを守ることで秩序やモラルを生み出そうとしたのですね。
また「禁中並公家諸法度」を定めることで、天皇や朝廷、公家に至るまで決して特別扱いすることなく「法に従うべき存在」だと知らしめたわけです。
3.「禁中並公家諸法度」とはどんな内容?
それでは本題の「禁中並公家諸法度」について内容を掘り下げていきましょう。禁中とは「朝廷」を。法度とは「法律」のことを指します。いわゆる朝廷やお公家さんたちを縛るための法律という意味になりますね。
3-1.第一条【天皇の主務】
天皇が修めるべきものの第一は学問である
ここで言う学問とは、「治道、和歌、有職故実」ということになります。天皇を日本固有文化の継承者として位置づけ、政治そのものに接触させないようにしました。
「政治は幕府に任せて、天皇は伝統行事にだけ精を出してくださいね。」ということに他なりません。
3-2.第二条【三公の座次】
親王の位次は三公の下にあり。摂家の位次は、三公、親王、前官大臣、諸親王
三公とは、朝廷のトップ3「太政大臣、右大臣、左大臣」のことを指します。天皇の子供である親王は三公よりも位が低いとされていますね。
3-3.第三条【清華家の大臣辞任後の座次】
ところが三公が官職を辞任したあと、その位は親王よりも下になります。このへんはちょっとややこしいのですが、いくら高官になっても退職すれば「ただの人」になってしまう図式ということですね。