平安時代日本の歴史

蝦夷征討で活躍した征夷大将軍「坂上田村麻呂」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

紀古佐美の敗北と坂上田村麻呂の征夷大将軍任命

781年、光仁天皇にかわって桓武天皇が即位すると、蝦夷征討の準備を開始します。788年、桓武天皇は紀古佐美を征東大使に任命し、蝦夷征討を命じました。軍を率いた紀古佐美は現在の平泉町にある衣川の付近に布陣します。

ところが、紀古佐美は1か月以上にわたり、衣川の陣から進撃しませんでした。このことが、桓武天皇の耳に入ると桓武は「兵は拙速を尊ぶ」として長期戦を避け、蝦夷と決戦するよう命じます。

天皇の命令を受けた紀古佐美は衣川を渡ってアテルイ(阿弖流為)と戦いましたが大敗。食糧不足などを理由に、勝手に征東軍を解散してしまいました。

792年、桓武天皇は大伴弟麻呂を征東大使に、坂上田村麻呂を副使に任じて蝦夷と戦わせます。この遠征で力が認められた坂上田村麻呂は797年に征夷大将軍に任命され、東北遠征の全権を委ねられました。

 

蝦夷の首長アテルイとの戦い

桓武天皇は今度こそ、蝦夷との決着をつけるべく万全の準備を整えます。その上で、801年、桓武天皇は坂上田村麻呂に遠征軍の指揮権を象徴する節刀と4万の兵を与えて東北に送り出しました。

坂上田村麻呂の軍は圧倒的な数を活かして北上。胆沢、志波の周辺からアテルイの勢力を追い出しました。戦いの詳細は伝わっていませんが、朝廷軍とアテルイの戦力差から考えると、抵抗が難しかったのではないでしょうか。

坂上田村麻呂は801年中に一度京都に戻ったことが史料から判明しています。戦局が優勢だったからこそ、桓武天皇に経過報告を行う余裕があったのかもしれませんね。

802年、坂上田村麻呂は占領地を統治するため胆沢城を築城します。朝廷軍に抵抗できないと考えたアテルイは坂上田村麻呂に降伏しました。

田村麻呂は朝廷にアテルイ助命を訴えましたが受け入れられず、アテルイは処刑されてしまいます。田村麻呂の蝦夷遠征は803年の志波城の築城をもって終了しました。

平安後期の東北地方

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坂上田村麻呂が東北遠征をおこなった後、東北地方では安倍氏の勢力が強まります。前九年の役や後三年の役で、源氏が東北に進出する一方、安倍氏の力は弱体化。かわって、勢力を拡大したのが清原氏でした。清原清衡はのちに藤原清衡と改名。東北地方で最有力の武将となります。その後、清衡の子たち奥州藤原氏とよばれ、東北地方を支配しました。

前九年の役

平安時代の後期、現在の岩手県から宮城県にかけて広がる奥六郡の支配者となったのが安倍氏でした。奥六郡は胆沢郡、江刺郡、和賀軍、紫波郡、稗貫郡、岩手郡からなり、ちょうど坂上田村麻呂が制圧した地域と重なります。

1051年、奥六郡の支配者だった安倍頼時が朝廷に反乱を起こしました。これが、前九年の役の始まりです。安倍頼時の反乱を鎮めるため、朝廷は源頼義を派遣しました。

頼時は戦いのさなかに戦死しますが、戦いは続きます。戦いを有利に進めたい源頼義は隣接する出羽の支配者である清原氏の力を借りて安倍氏に勝利しました。安倍氏滅亡後、清原氏が東北地方で最大の勢力を持つようになりました。

後三年の役

前九年の役の終了後、東北地方を支配した清原氏では内紛が生じます。清原氏の家督を継いでいた真衡と叔父の吉彦秀武、弟の家衡、異父兄弟の清衡が争いとなりました。真衡は陸奥守源義家を味方につけ、戦いを優位に進めます。

しかし、真衡が戦いの途中で病のために急死してしまいました。義家は陸奥守として争いを裁定。清原氏の支配していた奥六郡を家衡と清衡で半分ずつ相続させようとします。

ところが、家衡は義家の裁定を不満とし、清衡の館を攻撃しました。清衡は命からがら脱出。源義家とともに家衡と戦います。

戦いは陸奥守源義家を味方につけた清衡の勝利で幕を閉じました。戦いの後、義家は朝廷から後三年の役は義家の私戦であるとされ、陸奥守の地位をはく奪されてしまいます。後任の国司も赴任後すぐになくなったため、東北地方は清原清衡が支配することになりました。

奥州藤原氏の支配

清原氏の所領を全て引き継いだ清衡は、実父である藤原経清の姓である藤原を名乗りました。そのため、清衡と清衡の子孫たちのことを奥州藤原氏と呼びます。

清衡は朝廷との関係を良好に保つことが得策と考え、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などを常に献上しました。

清衡の子である基経は新たに台頭した上皇による政治(院政)に素早く対応。陸奥守として赴任してきた院の近臣と親交を結び、朝廷とのコネクションを強化します。その結果、奥州藤原氏は押領使鎮守府将軍など、東北地方を支配する上で重要な役職に任命されつづけました。

また、奥州藤原氏は本拠地である平泉に京都にあるような大寺院を造営します。清衡は中尊寺、基衡は毛越寺、秀衡は無量光院を創建しました。砂金と馬に支えられた奥州藤原氏は平安末期に独自勢力として自立します。

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