弥生時代日本の歴史

弥生時代最大級の環濠集落遺跡「吉野ヶ里遺跡」を元予備校講師がわかりやすく解説

吉野ケ里遺跡の環濠と重要区域

発掘が進んだ吉野ケ里遺跡は公園として施設が整備され、発掘成果や最新研究にもとづき90以上の建物が復元されています。まず、目をひくのが集落全体を囲む外濠と内濠。一番深い場所で深さ3.5メートル、幅6.3メートルあったことが確認されています。江戸時代や戦国時代の城と異なり、水が入っていない空堀でした。

遺跡内には二つの重要建物区画があります。一つは北内郭。高床倉庫や主祭殿とよばれる大型建築物が並ぶ区画で、周囲を2重に囲む環濠が張り巡らされていました。また、入り口はかぎ型に折れ曲がっていて防御を意識していた可能性があります。

もう一つは遺跡のほぼ中央付近にある南内郭物見やぐらや兵士の詰め所、王の住まいなどが発見されました。王の住まいだと考える根拠は、この当時、かなりの希少品だった鉄製品が出土したからです。

吉野ケ里遺跡からの出土品

吉野ケ里遺跡からは建物の遺構だけではなく、数多くの品物が出土しています。紀元前1世紀ころの細形銅剣ガラス管玉銅鏡のかけら銅矛の鋳型などは国の重要文化財に指定されました。

また、吉野ケ里遺跡からは多くの木製品も出土しています。出土した木製品は土を掘り起こすための(すき)(くわ)、草などを刈り取るための、木を切り倒すための、コメを収穫するための石包丁や脱穀用のなど。

これらの遺物から、吉野ケ里遺跡では大規模な稲作が行われていたことがはっきりとわかります。ほかにも、木でつくられた祭器や剣や戈をまねた木製の武器模型や船を模した船型の木製品なども出土していて、当時の人たちの考え方を知る手掛かりになりました。

墳丘墓や甕棺墓

吉野ケ里遺跡には二つの代表的な墓域があります。一つは北墳丘墓。墳丘墓とは弥生時代後期に西日本でつくられた大きな墳丘をもつ墓のこと。古墳と区別するために墳丘墓とよばれます。墳丘墓には地域の有力者や支配者が埋葬されました。

吉野ケ里遺跡の墳丘墓は違う種類の土を何層にも重ねて突き固めた丁寧な作りで、墳丘内部から14基の甕棺を発見。貴重品であるガラスの管玉も一緒に見つかっていることから、被葬者が高貴な人物であったことをうかがわせます。

甕棺とは、九州北部でよく発見される棺のこと。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ(屈葬)、土の中に埋葬されました。もう一つは一般の人々の墓地である甕棺墓列。吉野ケ里遺跡の周辺の丘には様々な場所に甕棺が埋葬されています。中でも、遺跡内にある甕棺墓列には2000基を超す甕棺が整然と埋葬されていました。

弥生時代の代表的な遺跡

image by PIXTA / 31790239

弥生文化の遺跡は九州から東北地方まで幅広く分布しています。弥生時代の語源となった東京の弥生町遺跡や大規模な水田耕作跡が発見された登呂遺跡、吉野ケ里遺跡に次ぐ規模を誇る環濠集落遺跡で邪馬台国近畿説の根拠の一つともされた唐古・鍵遺跡など多くの遺跡が発掘されました。

弥生時代の名前の由来となった弥生町遺跡

1884年、東京都文京区弥生でほぼ完全な形の壺型土器が発掘され弥生土器と名づけられました。そもそも、この場所は縄文土器などが発見される貝塚(向ヶ岡貝塚)です。向ヶ岡遺跡は戦前に発見・調査されたため、遺跡の正確な位置などがわからなくなっていました。

1974年、東京大学の構内で弥生土器が発見されたことと、発見の状況が発掘者の記録と一致したことから、遺跡の場所が弥生二丁目であることが判明します。

弥生土器の特徴は、薄焼きであること、縄文土器に比べて均整がとれていること、赤褐色・淡褐色であることなど。文字資料がない縄文時代・弥生時代の研究で土器はとても重要な役割を持ちます。

土器の作り方や土の質などから土器の制作年代や地域的広がりを知ることができるからですね。その意味で、弥生町遺跡は弥生時代研究において重要な意味を持った遺跡です。

水田耕作の跡がみられる登呂遺跡

第二次世界大戦中の1943年、静岡県静岡市の登呂で軍需工場の建設中に多くの木製品が出土しました。工事関係者は発見した遺物を中田国民学校に一時保管します。

このことを知った考古学者の安本博氏は登呂で発見された遺跡が唐古遺跡のような大発見だと新聞記者に知らせたことで、登呂遺跡の名が全国に知れ渡りました。

戦後、登呂遺跡の発掘調査が再開されます。この1947年の調査で水田跡や井戸の跡、竪穴住居、高床倉庫などの遺構が発見されました。

また、農耕・狩猟・漁労などに関する木製品や占いに用いた動物の骨なども出土。現在、登呂遺跡は公園として整備され、発掘された遺物は隣接する静岡市登呂博物館で展示されています。

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