室町時代戦国時代日本の歴史

謀略家と気前の良さ…そのギャップがそそられる謀聖「尼子経久」の生涯とは

主と和解も、こっそりと下剋上

三澤氏を下した経久は、次々と他の国人を攻略し、出雲における一大勢力となっていきました。

ところで、尼子氏の主筋である守護・京極政経は、お家騒動に敗れ、本来の領地・近江(滋賀県)から出雲に戻って来ました。かつては対立した経久と政経ですが、和解することとなります。政経は孫に家督を譲り、その行く末を経久に託しました。ところが、その肝心の孫はまもなく行方不明となり、歴史から消え去ってしまうのです。そして、代わって出雲の支配権を手にしたのは、ほかならぬ経久でした

政経の孫はいったいどこに消えたのか…経久が一枚噛んでいそうな気がしますね。

ともあれ、経久はこうして下剋上を果たすことになったのでした。

息子たちを失い、尼子氏支配に翳りが出る中で世を去る

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経久は出雲支配を盤石なものとすると、周辺諸国への侵攻を開始します。しかし、長男を戦で失い、三男には反乱を起こされるなど、支配は足元から徐々にぐらついていきました。孫に家督を譲ってからは、その孫が毛利元就に大敗を喫するなど、経久の思い描いていた尼子王国はだんだんと斜陽に向かうのです。しかしもはや彼は老齢。なすすべがありませんでした。

痛恨!将来有望な息子を戦で失う

経久は出雲を手に入れましたが、それで自分の力を過信することはありませんでした。まずは強い勢力に従い、そこで生き延びて力をつけていこうと考えたのです。

当時、中国地方は周防(山口県)の大内義興(おおうちよしおき)が最も力のある武将でした。義興は室町幕府でも重鎮だったため、経久は彼に従う方が得策と見たのです。

その一方で、経久は出雲から周辺の国に進攻を始めていました。ところが、永正10(1513)年、嫡男の政久(まさひさ)を合戦中に失ってしまいます。花も実もある武将として将来を期待されていた政久でしたが、得意の笛で士気を高めようとしたところ、その音を聞きつけた敵の一斉射撃の標的となってしまったのでした。

そんな悲劇もありましたが、経久は戦を続けました。出雲西部に加え、備後(広島県東半分)や安芸(広島県西半分)、石見(島根県西部)を制圧し、この時に安芸の毛利氏を傘下に加えたのです。

自身に匹敵する謀略の持ち主・毛利元就の登場

備後や安芸への進出は、大内氏との対立につながりました。経久はここで大内氏から離反し、大内方の安芸での拠点となる鏡山城に攻め込んだのです。ちょうど、大内義興が北九州へと出兵している隙を衝いたのでした。

ここで活躍したのが、経久の傘下となっていた毛利元就(もうりもとなり)です。彼はまだ毛利氏の当主ではありませんでしたが、謀略を駆使して鏡山城を落城させました。

しかし、その鮮やかさに、かえって経久は警戒心を強めます。自分の脅威となる存在がすぐそばにいることに、彼は気づきました。元就は後に経久と並び、「中国地方の三大謀将」と称されるようになる人物だったのです。

そのため、経久は毛利氏の家督問題に介入しました。ちょうどその頃、家督を継いでいた毛利幸松丸(もうりこうまつまる)が夭逝し、後継者として叔父・元就と相合元綱(あいおうもとつな)の兄弟が候補に挙がったのです。

経久は密かに相合元綱を推しましたが、結局、家臣団の強い要請により、元就が家督を継ぐことになりました。そして元就は元綱を殺害し、大内氏へと接近していくことになったのです。

実の息子が反乱を起こす

この頃から、中国地方の状況は少々経久に不利に傾いていきます。すぐそばの山名氏が反尼子に転じたため、経久は山名氏と大内氏という敵に挟まれる形となってしまったのです。

そんな中、経久にとっては衝撃的な事件が起こりました。

享禄3(1530)年、経久の三男・塩冶興久(えんやおきひさ)が反乱を起こしたのです。

興久は出雲の名門・塩冶氏に養子に入っていました。しかし、領地の分配に不満を持ち、同時に塩谷氏に古くから仕えてきた家臣たちの不満に抗しきれなくなったのです。

この戦いは出雲を二分する争いにまで発展しました。鎮圧までには数年を擁し、興久は自害することとなってしまいました。

孫の行く末を憂いながら世を去る

塩冶興久の乱の終結から3年後、経久は討死した嫡男・政久の息子で孫に当たる晴久(はるひさ)に家督を譲ります。晴久もまた精力的に活動し、石見銀山を大内氏と奪い合うなどしましたが、大内方となった毛利元就との間で起きた吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の戦いで思わぬ敗北を喫し、影響力を弱めてしまうことになりました。

この時、すでに経久は80歳を超える老齢でした。もはや自由に動ける体ではなかったことでしょう。孫の不甲斐無さを悔しく思っていたかもしれません。

そして、天文10(1541)年、経久は84歳の生涯を終えたのでした。

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