古墳時代日本の歴史

暴かれた蘇我馬子の墓「石舞台古墳」この古墳と蘇我馬子について解説

物部守屋と蘇我馬子の激突に勝った馬子が朝廷の権力を握る

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大和朝廷で最後まで権力争いをしたのは、蘇我馬子と物部守屋でした。蘇我馬子は仏教伝来以来、積極的に仏教を広めようとしたのです。しかし、神武天皇以来の大王家の家臣であった物部守屋は、古代からの神道を守護しており、仏教を広めることには反対していました。そのため、大和朝廷内の権力争いは仏教をめぐって決定的な対立を招いたのです。両者の対立は大王家の後継者問題にも及びます。そして敏達天皇が崩御された後の587年に、蘇我馬子は、物部守屋と組んでいた穴穂部皇子を殺害しました。さらにほかの豪族や厩戸皇子(聖徳太子)らとともに物部守屋を攻め滅ぼしたのです。このとき、馬子と一緒に参加した聖徳太子は、戦いの悲惨さにショックを受け、後に難波に四天王寺を建立したと言われています。そして、その影響もあり、蘇我氏から距離を置くようになったと言われているのです。

その結果、蘇我馬子は朝廷で並ぶもののない権力者になりました。

崇峻天皇の暗殺は蘇我馬子がそそのかしたと言われている

蘇我馬子などの権力は、大王(天皇)を入れ換えることも可能になっていました。例えば、崇峻天皇は、592年に馬子が裏から手を回して暗殺されたと言われています。すなわち、すでに物部氏を滅ぼして朝廷には蘇我馬子と争う豪族はいなくなっており、馬子は用明天皇(聖徳太子の父)の崩御後に、甥の泊瀬部(はつせべ)皇子を崇峻天皇として即位させていました。

しかし、崇峻天皇は馬子の意思に反して、大王家を中心に考えるようになり、馬子にとっては邪魔になっていたのです。そこで蘇我馬子は、東漢駒(やまとのあやのこま)をそそのかして(あるいは命じて) 崇峻天皇を暗殺させました。崇峻天皇の在位はわずか5年で終わってしまいます。そして馬子は、自分の言いなりになる推古天皇(炊屋姫;かしきやひめ)を新たに即位させているのです。

蘇我馬子は推古天皇の擁立と甥の厩戸皇子を摂政へ

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物部守屋との争いを制し、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子は、敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)を天皇に即位させ、甥の厩戸皇子を摂政とする体制をとったのです。同時に、馬子は自身の墓である石舞台古墳の造営を進めさせました。

蘇我氏の支配に聖徳太子も憂慮して大王家としての立場を強める

このような蘇我馬子の朝廷での権力に愛想をつかせたのが聖徳太子でした。仏教への帰依を強め、大王家による中央集権による政治体制を目指したのです。

蘇我氏の朝廷支配に反発した大王家

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大王が暗殺され、家臣であるべき蘇我氏に権力が集中する朝廷の様子に反発をしていたのが大王家(天皇家)でした。大王はすでに権力を失い、現在の象徴天皇のように祭祀の際の役割に限られてしまっていたのです。

聖徳太子は、自ら十七条憲法や冠位十二階のように大王家主体での中央集権政治を目指しましたが、地方権力を持つ豪族たちの反発を受けてしまいます。蘇我馬子も、崇峻天皇の時のように表立って反対することはなかったものの、豪族たちを押さえることもしませんでした。

蘇我馬子の死去によって蘇我氏は変わった_聖徳太子の悲劇へ

そして、大和朝廷における最大の権力者であった蘇我馬子が亡くなります。それまでは、聖徳太子に対して表立って反対しなかったことで、聖徳太子はある程度思った通りに政治を動かすことができ、遣隋使なども派遣していました。

しかし、馬子が亡くなった後に最高権力者になったのは、馬子の息子の蘇我蝦夷と孫の入鹿でした。彼らは、聖徳太子を全く無視して政治を動かしていったのです。聖徳太子は後ろ楯を失い、斑鳩の離宮から出てこなくなりました。

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