蘇我蝦夷と入鹿の独裁による聖徳太子の孤立と孤独死
そして、蘇我蝦夷と入鹿の専横の中で、聖徳太子は孤立し、孤独のうちに亡くなってしまったのです。蘇我馬子の墓は生前から造営され、当時としては最大級の規模の墓が営まれました。しかし、聖徳太子の墓は奈良盆地の磯長の地に設けられましたが、周囲50mと馬子の墓石舞台古墳が80mを越えているのに比べると小さくなっています。
聖徳太子の遺産の遣隋使たちが帰国して中大兄皇子らを育てる
聖徳太子は、隋の皇帝煬帝に不快感を与えるような国書を待持たせたものの、遣隋使に成功しています。しかし、その派遣された遣隋使たちが帰国したときには聖徳太子はすでに亡くなっていました。その若手遣隋使らは朝廷では官職に就けなかったものの、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足などの蘇我氏などの豪族政治に反発する大王家の人々や下級官吏らを集めます。そして、隋の中央集権政治について勉強会を開催して、蘇我氏討伐の機運を高めたのです。
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大化の改新によって蘇我一族は消滅、馬子の墓が暴かれた?
そしてついに645年に大化の改新が起こり、蘇我蝦夷、入鹿親子は殺害され、蘇我氏本流は消滅したのです(一部蘇我赤兄のように不遇の一族は残った)。そして、聖徳太子が目指した中央集権政治に向けて朝廷は動き出したのです。天皇中心の中央政治を目指した聖徳太子の意思は中大兄皇子、大海人皇子(後の天武天皇)に引き継がれ、実現されました。
大化の改新によって蘇我蝦夷と入鹿親子は滅び、馬子の墓が暴かれた
石舞台古墳は当時の天皇陵よりも大きく、それ自体が問題でした。さらに、中大兄皇子は、聖徳太子のように蘇我氏とは直接のつながりがなく、蘇我馬子に対して遠慮をする必要はなかったのです。その結果、馬子の墓である石舞台古墳は壊され、墓は別に移されたと言われています。そして石舞台古墳と言われるように石室がまる裸にになった姿で現代までその姿をさらすことになったのです。
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飛鳥のロマンをたたえる石舞台古墳は痛ましい歴史を伝える
石舞台古墳は、現在でこそ、親子連れがたくさんピクニックに訪れたり、多くの明日香村散策の観光客の方が訪れたりしています。しかし、もともとは悲惨な歴史の生き証人なのです。崇峻天皇、穴穂部皇子、物部守屋などの多くの血を流した蘇我馬子の墓であり、それゆえに石室がむき出しになるまで墓が暴かれた姿をさらすことになった古墳はほかにありません。
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