1-6.ロシアを地に染めるモンゴル軍
モンゴル軍はまずヴォルガ河畔にある都市ブルガールの攻略に取り掛かりました。抵抗を試みたブルガールは徹底的に破壊され、二度と街が再建されることはありませんでした。
ちなみにブルガール人の多くはイスラム教へ改宗していますが、改宗を良しとしなかった一部の人々は、ヨーロッパへ移住し、のちにブルガリアを建国しています。
1237年、凍り付いたヴォルガ川を渡河したモンゴル軍はロシアへ侵入。真っ先にリャザン公国を滅ぼして、見せしめのように君主はじめ一族を皆殺しにします。さらにウラジミール大公国、スーズダリ大公国はじめ抵抗するルーシ諸国を次々に攻略し、広いロシア平原を縦横に駆け回りました。
1240年にはルーシ南部の大都市キエフも包囲され、キエフ大公国が滅亡。おびただしい避難民がが西のポーランドやハンガリーへと逃げ込むことになりました。こうしてロシアを席巻したモンゴルの大軍団が、ヨーロッパへと雪崩れ込むのは時間の問題となったのです。
2.モンゴル軍はなぜ無敵だったのか?その真相に迫る
unknown / (of the reproduction) Staatsbibliothek Berlin/Schacht – Dschingis Khan und seine Erben (exhibition catalogue), München 2005, p. 255, パブリック・ドメイン, リンクによる
瞬く間にユーラシア大陸の大部分を席巻し無敵を誇ったモンゴル軍。行く先々でどんな大軍が相手でも圧倒的な勝利を収めています。なぜ彼らはそんなに強かったのでしょうか。そこには遊牧民ならではの戦い方の特徴が表れているのです。
2-1.モンゴル軍兵士の驚異的な忍耐力
モンゴル民族はよく知られている通り、遊牧の民だといわれています。しかし遊牧のみでは大きな利益を生み出せないと考えたチンギス・ハンは、東西交易から得られる税収によって豊かな国づくりができると考えたのかも知れません。
しかし西へ向かえば向かうほど強国ばかり。勢力を拡大するためには精強無比な兵力が必要です。その点、モンゴル兵は他国兵とは違って恐るべき戦闘力だけでなく、忍耐力や連帯力を兼ね備えていました。
どんな気候にも耐え、どんな粗食でも口にできる能力に外国人は驚嘆したといいます。かのマルコ・ポーロも「彼らは、必要なら火を通さない肉だけ食べて10日間も行軍することができる。酒も水もなくても、馬の血だけでしのぐこともしばしばだった。」と書き記していますし、イタリアのフランチェスコ会修道士カルピニは「口に入るものなら、何でも彼らの食料になる。」と記しています。
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2-2.強固な結束力と連帯感
またモンゴル兵独自の携帯食料は、羊まるまる一頭分を干し肉にし、叩き続けて軽量化させ、最後は袋に入るサイズにまで圧縮できました。いわゆる普段から非常食を携行し、粗食に慣れていたということが言えますね。
そして彼らの連帯感も一枚岩のようだったといいます。最高責任者を1人決めた上で、1千人の兵士を戦闘集団としてまとめ寝食を共にさせました。
さらに100人隊10人隊と組織を細分化させたうえで、上司には絶対服従という倫理を課しました。そうすることで強固な組織作りを図っていたのですね。
ちなみにモンゴル軍は数において絶えず劣勢でした。そのため占領国の男子10人のうち3人を徴兵しており、その戦力として駆使していました。しかし本来なら敵愾心を持ち、離反や反乱の恐れのある彼ら徴集兵たちの多くは極めて忠実だったといいます。
なぜなら部隊全員に連帯責任を持たせ、1人が失敗を犯せば全員が罰せられるという倫理観の中では、そこにモンゴル人も外国人も垣根はなかったからです。
2-3.強さの決め手はスピード
モンゴル軍は兵士1人につき7~8頭の馬を率いて遠征していました。馬を乗りつぶした際の替え馬として必要だったからです。その1日の移動距離は80キロほどともいわれ、まさに恐るべき進軍スピードだったことがわかります。かの羽柴秀吉の中国大返しの速度が30キロとされていますから、いかに速かったかがわかりますよね。
そして実際の戦闘の場面でも、モンゴル軍兵士はその神速ともいえるスピードをもって敵軍を翻弄し、戦場を駆け抜けたのです。
ヨーロッパのナイトが着込むような重厚な鎧ではなく、彼らは革製の軽い甲冑を着込むことで肝心なスピードを犠牲にすることはありませんでした。
モンゴル軍の常套手段としては基本的に小競り合いから始まり、それを繰り返して相手を疲弊させ、士気を失うチャンスを見計らって攻勢を掛ける。または退却するふりをして敵の攻勢を誘い、不意を突いてパルティアンショット(騎射)を放つというものでした。
2-4.周到な準備と負けない戦術
大規模な戦闘では中央に最も弱い部隊を配置し、周囲の高台や隠れやすい場所に精強な部隊を潜ませるということも常套手段でした。
敵が中央に攻め込んできたところを両翼から包囲し、殲滅するという戦術で勝利を確実なものとしたのです。モンゴル軍と相対した敵軍の多くが全滅に近い打撃を受けている理由はそこにありますね。
また普段から統制や事前準備を重視し、決して奇襲などには頼らなかった戦術を駆使していました。全軍を統制するべき将軍は決して戦場に出て戦うことなく、戦局を注意深く見守っていたといいます。なぜなら戦場で最高指揮官が戦死した場合、自軍が大混乱に陥り、多くの仲間たちが犠牲になるからです。
遠征だけでなく、個別の戦闘においても緻密な計画を建て、それを実行に移すだけの能力があったところがモンゴル軍の強みでした。