2-5.効果てきめんだった「見せしめ」
モンゴル軍がおこなった戦いの特徴として、素直に降伏すれば寛容に処置するものの、逆らえば一木一草残らないほどの徹底した破壊が待っていました。
1220年のホラズム帝国との戦いでは、モンゴル軍は女性と犬を除いて全てを殺して都市を焼き尽くし、1258年のバグダードの戦いではフレグ将軍の手によって都市は壊滅し、知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何万冊もの学術書が燃やされました。
また皆殺しに遭った市街地では犠牲者の血で膝まで浸かるほどだったそうです。このように抵抗した都市に対しては徹底した破壊と殺戮の嵐が吹き荒れ、周囲の諸都市を震撼させました。
その「見せしめ」の効果は絶大で、畏怖した数多くの敵が戦わずして降伏するという結果になったのです。
2-6.モンゴル軍が残虐だったのはウソ?ホント?
モンゴル民族はは遊牧民でもあり、人命尊重に重きに置いていたという説も少なくありません。戦死者を少なく抑える慎重な戦い方をしていたとされていますから、残酷な攻略法だったとはいえ敵味方の損害を少なくするためには最も合理的な方法だといえるでしょう。
ただしモンゴル軍のやり方を目の当たりにしたヨーロッパの人々は、口伝えにその残虐さを喧伝し、まことしやかな噂が現在にまで伝わっています。
「敵兵の肉を焼いて食べた」だの、「財宝目当てに都市を破壊している」といった実際とは違う負のイメージが残っているのですね。ヨーロッパの人々に中にある「東方の蛮族」という差別意識ももちろん存在していたのではないでしょうか。
しかし実際のモンゴル軍は、ヨーロッパ諸侯の軍より統制も取れており、十字軍などと比べればいたって紳士的でした。戦利品としての財宝も皆で公平に分け与えますし、無意味な略奪もしませんでした。いわゆる物質的な利益を追求していなかったからこそユーラシア大陸を支配できたともいえるでしょうね。
3.モンゴル軍、いよいよヨーロッパへ侵攻
ロシアのルーシ諸侯の都市を次々に攻略し、東ヨーロッパへ矛先を向けたモンゴル軍。いよいよヨーロッパの誇る騎士団との対決の始まりです。
3-1.二手に分かれて進軍するモンゴル軍
ロシアを席巻した後、バトゥ率いるモンゴル軍はキプチャク平原(ロシア西部~東ヨーロッパ)を平定するため進軍を開始します。キプチャクを治めるのはポロヴェツ族の王コチャンでした。
ロシアのルーシ諸侯らと共にモンゴルに抵抗したポロヴェツ族を何としても制圧しておく必要があったのです。
結果はモンゴル軍の圧勝に終わり、コチャンは逃亡してハンガリーへ逃げ込みました。「抵抗するものは徹底的に追い詰める」べく再び行動を開始したモンゴル軍は、今度は軍を2つに分けることにしました。
バトゥ率いる本隊はコチャンを追ってハンガリーへ。いっぽう部将で親族でもあるバイダルは別動隊を率いてポーランド方面へと向かったのです。
3-2.ほぼ壊滅したヨーロッパ連合軍
バイダルの別動隊は陽動作戦が任務だったため、本来はハンガリー王国を牽制するための役目を持っていました。しかしその先に待っていたのは、ヨーロッパの危機に応じて馳せ参じたポーランド、神聖ローマ帝国、ドイツをはじめとする騎士団だったのです。
バイダル率いるモンゴル別動隊は約2~3万だとされており、迎え撃つヨーロッパ連合軍もほぼ同数だといわれています。ヨーロッパ連合軍の中には歴史上名高いテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団なども含まれていましたが、援軍要請に応じた諸侯はわずかばかりだったとも。
ちなみに「ワールシュタット」とはドイツ語で「死体の山」を意味します。
4.「ワールシュタットの戦い」と「モヒ」の戦い
不明 – Medieval illuminated manuscript , collection of the J. Paul Getty Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる
いよいよ東ヨーロッパへ到達したモンゴル軍と、それを迎え撃つヨーロッパ連合軍の戦いが始まります。しかしそれは華々しいものではなく、一方的な殺戮の場となったのです。ここで2つの戦いを見ていきましょう。