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5分でわかるワールシュタットの戦い!ヨーロッパ連合軍vs恐怖のモンゴル軍との戦いをわかりやすく解説

4-1.戦いの口火がきられる

ヨーロッパ連合軍の総司令官はポーランド大公ヘンリク2世でした。1241年4月9日、布陣を完了した連合軍は、定石通り弓矢で攻撃したのちに、騎兵団を突入させて敵陣の粉砕を企図しました。これがワールシュタットの戦いの始まりでした。

何しろヨーロッパ人たちはモンゴルの戦術すら知らず、まずはセオリー通りに作戦を進めようとしたのです。ヨーロッパの騎兵たちは重装備で当たりも強いため、その突進力で戦局を有利に進めようとしたのでした。

騎兵に続いて歩兵部隊も突入させ、敵陣に空けた穴を押し広げようと押し込んでいきます。見るとモンゴル兵たちは次々とヨーロッパ兵に追われて敗走していくではありませんか。

勝利を確信したヘンリク2世は、さらなる追撃を指示しました。まさに勝利まであと一歩。ヘンリク2世の本陣も前方へ移動していったのです。

4-2.思わぬ伏兵を受ける

ヨーロッパ連合軍の先鋒隊が敵を押し込んでいくに従って、まるで全軍が引っ張られるように前方へ移動していきます。全体的な戦況としては、ヨーロッパ連合軍がモンゴル軍を追撃する形となったのです。

しかし、ここで思わぬことが起こりました。予想もしない側面から無数の矢が飛来し、ヨーロッパ兵たちを射すくめたのでした。しかも恐ろしいほどの正確さとスピードで。

完全に足を止められてしまったヨーロッパ連合軍はようやく気付きました。それが巧妙に仕組まれた伏兵による攻撃であることに。退却しようにも各陣は大混乱に陥って収拾がつかないありさま。右往左往するばかりです。

「しまった!」ヘンリク2世がそう思った時、すでにあとの祭りでした。

4-3.一方的な殺戮戦となる

側面から攻撃されて大混乱に陥り、退路まで断たれてしまったヨーロッパ連合軍に生き残るすべはありませんでした。退却する素振りをしていたモンゴル兵らが逆襲に転じ、降り注ぐ矢の雨の中、多くの騎士たちが犠牲となりました。

やがて連合軍が数を減らしていくとともに包囲の環も縮まっていき、ついに一方的な殺戮へと転じたのです。モンゴル兵らはまるでウサギを狩るかのようにヨーロッパ兵を追い回し、あちこちで断末魔の悲鳴が上がりました。

総司令官のヘンリク2世もついに戦死し、モンゴル兵は彼の首を槍の穂先に突き刺しながら行軍したといいます。

こうしてヨーロッパ連合軍は全滅に近い打撃を受け、戦場には数えきれないほどの死体が残されました。まさにこの敗戦がヨーロッパ人にとって忌まわしい記憶となった瞬間だったのです。

4-4.モンゴル軍の圧勝に終わった「モヒの戦い」

いっぽうバトゥ率いるモンゴル軍本隊は、コチャンを追ってハンガリーへ進んでいました。対するハンガリー王ベーラ4世はモンゴル軍を叩くために10万の大軍を出陣させたといいます。

まず数で勝るハンガリー軍はモンゴル軍を押し込み、自慢の重装騎馬隊が敵の先鋒を撃破。しかしモンゴル軍の反撃も激しく、弓矢や投石機を用いてハンガリー軍に大きな打撃を与えました。

激戦すること数時間、ハンガリー軍は思わぬ方向から攻撃を受けることになります。戦いが始まる前にモンゴル軍から分離していたスブタイ率いる別動隊が横合いから突っ込んだのです。

挟み撃ちを恐れたハンガリー軍は円陣を敷きますが、結果的に包囲される形となり、なんとか包囲を脱する部隊はあったものの、次々にモンゴルの軽装騎兵に追い付かれて討ち取られることとなりました。ベーラ4世は何とか生き残りますが、もはや抵抗する力は残されていませんでした。

4-5.大ハーンオゴタイが亡くなる

「モヒの戦い」の結果ハンガリー軍は壊滅し、ベーラ4世も逃亡してしまったため、ハンガリーはモンゴルの支配地となりました。これで東ヨーロッパの主要な地域はモンゴルのものとなり、人々は「次は西ヨーロッパの番だ!」と恐怖と悲嘆に明け暮れたといいます。

しかし、バイダルの別働隊と合流を果たし、次にウィーンを目指そうとしていたバトゥの元に驚くべき知らせが届きました。

「大ハーンオゴタイ死す」

そのため本国への帰還命令が出され、モンゴル軍はハンガリーやポーランドを放棄して帰国の途に就くしかありませんでした。

こうしてヨーロッパはモンゴルの脅威から救われ、再びモンゴル軍がヨーロッパの地を踏むことはありませんでした。

モンゴルが去った後も恐怖を忘れなかったヨーロッパ

image by PIXTA / 43712862

その後、モンゴル帝国はいくつかのハン国に分裂して次第にその勢いを失っていきました。しかし惨禍を受けたヨーロッパやロシアの人々の記憶の中には、いつまでも「モンゴルの悪夢」は消えずに残っていたことでしょう。元々タタールとは「モンゴルの遊牧民」のことを指す言葉ですが、タタールとギリシア語のタルタロス(地獄という意味)とを掛け合わせて、モンゴルを「タルタル」と呼ぶようになったそうです。ですからタルタルソースやタルタルステーキの語源もそこから来ているそうですよ。

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明石則実