寵臣・和田義盛の謀反「和田合戦」
先に挙げた牧氏事件、畠山重忠の乱などの騒乱の中、常に源実朝のそばにいたのは、北条義時そして和田義盛。ことに和田義盛は、実朝がこよなく愛した老人です。老いて一徹の、父の若き日の挙兵を知る武将。彼は上総国の国司という、現代で言うならば千葉県知事の地位を望みます。実朝はその実現を和田に約束しました。
しかし和田の親族が、ひょんなことから発覚した謀反の企ての一味にいたのです。和田義盛は助命嘆願をしますが、北条義時は罪人として、和田義盛の親族に屈辱的な扱いを与えます。和田義盛のプライドはズタズタに傷つきました。「北条義時がムカつく」という御家人は多かったのです。そもそも北条義時はじめ北条氏は横暴だの陰険だの、非常に悪い噂がもっぱらでした。
1213(建暦3)年5月、北条氏憎しで燃える和田義盛はついに一族をまとめて兵を挙げます。まずは実朝を擁して自らの正当性を示すつもりでしたが、それよりも早く北条義時が実朝を自らの側に引きよせ、和田義盛は賊軍の将となりました。3日の戦の末に、和田義盛は討たれてこの「和田合戦」は幕を下ろします。自らで老臣に手を下したも同然の結果となってしまった、この合戦。実朝の心は深く傷ついたことは容易に想像できます。
いきなり起こった「渡宋」計画って?
こんな中、変な男がこつ然と姿を表します。そいつの名前は陳和卿(ちんわきょう)。宋国(中国)の人物で、職業は僧、あるいは工人とも言われています。彼は実は、実朝の父・頼朝とも知り合い。陳和卿は、焼亡した東大寺の大仏再建のためにやってきた人物でしたが、そのときに頼朝とニアミスしました。頼朝は陳和卿を尊敬して会いたいと望みましたが、陳和卿は「将軍はたくさん人を殺した業の深い人物だから、会いたくない」と言い放って使いを追い返したのです。けんもほろろでした。
その息子にたって面会を要求した老いた陳和卿は、「将軍は前世で医王山の長老で、自分は同じく前世で将軍の弟子だった」と言って、よよと泣き崩れるのです。それでどこか心をつかまれたのでしょう、実朝は唐突に言い出しました。「宋の国に渡りたい」と。それがこうじてなんと船まで造ってしまったのでした。北条義時や大江広元はあわてて止めますが、実朝は止まりません。
しかし結局、船は出ませんでした。というよりも、由比ヶ浜に造船されたものは大きすぎて、沖に出すことができなかったのです。陳和卿は姿をくらまし、二度と表舞台にはあらわれませんでした。この事件に際して、実朝はどういう考えをめぐらせていたのでしょう。太宰治は源実朝を題材にした歴史小説『右大臣実朝』で、語り手を通して「ただ鎌倉から離れたかった」という考察をしています。慕った老臣の一族を討ち、兄や母や叔父や祖父や、つらい の経緯……実朝は暗い闇の中にいたのかもしれません。
惜別 (新潮文庫)
Amazonで見る実朝の死――源氏将軍家の滅亡
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ついに源実朝に破滅が訪れます。彼の命を奪ったのは、やはりというべきか、身内の者でした。血みどろの上に成り立っている地位、失われた寵臣・重臣たちの命、将軍としての自分からも北条氏からも逃げることができず、和歌詠みという詩人の側面を持つ彼の繊細な神経に痛手を与えたことでしょう。彼の人生を眺めるに、まるで力尽きて燃え尽きたような最期の形のようにも見えます。実朝の最期とは、一体。
甥っ子・公暁――亡き先代将軍の息子
血みどろ源氏将軍家の歴史に新しい動きがあったのは、1217(建保5)年。上方・京都にいたある青年僧が鎌倉へ戻ってきたことが関係してきます。彼は第2代将軍の息子。出家後の名前は公暁(くぎょう、こうきょう)。僧侶となった後は「禅師(ぜんじ)」という高い位を得ていました。公暁少年は父の暗殺後、尼御台・北条政子のとりなしによって命を助かり、幼くして出家して世を捨てます。
鎌倉幕府へ戻ってきた18歳の公暁。彼は祖母の意志で、鶴岡八幡宮寺別当という、なかなか高い地位の管理職を与えられます。自分は将軍になるはずだった――そう彼は考えていたのかもしれません。いずれにせよ鎌倉へ戻ってきた彼は不穏な動きをしはじめるのです。
公暁は千日参篭という、おこもりの願掛けをはじめます。この際に、僧侶だというのに頭髪やひげを剃ることもせず、なにかを企てる様子だったことに多くの人が不審を抱きました。ついに決裂の時は来てしまいました、ときに実朝25歳、公暁20歳。
雪の夜、暗殺。
1219(建保7)年1月27日、鶴岡八幡宮で壮麗な儀式は行われました。右大臣拝賀の儀式です。その夜は雪が2尺(60cmほど)も降りしきる中で、世にも見事な豪華絢爛の様子でした。夜の鶴岡八幡宮、神拝を済ませた源実朝の前に、大銀杏の木の陰から躍り出たのは、他ならぬ公暁です。
「親の仇はかく討つぞ」公暁はこう言って右大臣となった実朝に斬りつけました。源実朝は最期に「広元やある」と叫び、絶命。甥は叔父の首を掻き切り、抱えて逃げだします。第3代将軍の首は持ち去られました。鎌倉幕府は大混乱。実朝と坊門信子のあいだに子はなく、ここに源氏将軍家の血は途絶えます。享年わずかに26歳(満28歳)でした。
源実朝の首を、公暁禅師は抱いて逃亡しました。よほどの執念があったのでしょう。その後公暁は討ち取られます。しかし首はどこにもありません――実朝の首はそのまま失われてしまいました。一説によると岡山で見つかったとも言われています。
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その後迅速に動いたのが他ならぬ、北条政子です。息子を孫が殺害するという非常事態にも関わらず、彼女は臨機応変かつ毅然と対応。北条氏による政権を盤石にします。その後に北条氏は実権を握りました。母の政子は「尼将軍」、叔父の北条義時は「東国の王」と歴史書に記される激しい働きをするのです。ともあれ天皇家や公家、北条氏はじめとする複雑な力関係の中で生きた悲劇の将軍、源実朝。彼が別の時代に生まれていたならば、どんな和歌が生まれていたのだろうと考えてしまいます。