日本の歴史鎌倉時代

第3代征夷大将軍「源実朝」揺れる鎌倉幕府、悲劇の将軍の人生とは?

ついに征夷大将軍へ

実朝が征夷大将軍となるまでには、血で血を洗う争いがありました。頼朝の死後は兄の頼家が第2代征夷大将軍として政権を継ぎます。しかし「不適格者」と判断されて暗殺。その後もゴタゴタが続きます。鎌倉幕府につきまとう暗い影響力、それは、源氏の棟梁・頼朝に対して娘を妻として差し上げ、平家の怒りに触れて流されてきた流人に惚れ込み、全氏族をあげてバックアップした一族――北条氏です。

これは実朝が将軍就任した後の話になりますが、頼朝の父で実朝にとっては祖父にあたる北条時政が、後妻の牧の方とともに、孫の実朝を害そうとしていることが判明しました。ここで北条義時は、甥の実朝のために政治手腕を、それもかなり思いきった手を振るいます。継母の牧の方には自害を強い、父の時政には出家を勧めるという手段に出たのです。結局のところそれは実現しました。なかなか殺伐とした話です。これは「牧氏事件」と呼ばれます。

ともあれ第2代将軍・頼家が追放されたことから少年・千幡は朝廷からの勅命を得て「実朝」という名前を得ました。そして第3代征夷大将軍に任じられるのです。実朝、ときに12歳でした。ここから少年将軍の運命は転がりだすのです。

妻は超名門の公家のお姫様

12歳で征夷大将軍となった源実朝。この少年の次のステップは、元服=成人式を済ませた男性としてお嫁さんをもらうことでした。誰もが知る通り、為政者の妻にどの家の誰をあてがうかで、パワーバランスは変わります。もちろんみんな、少年将軍の外戚になりたい!

しかし実朝が選んだのは、京都の超名門・坊門家の姫君である信子。お公家さんのお姫様を妻にすることで、東国の豪族の派閥争いにいったん小休止を得たのです。坊門信子は、東国へ下ったときには11歳の幼妻。生涯を通して実朝はこの妻を愛し、鶴岡八幡宮への参詣や歌会、舟遊びなどによく連れていきました。

しかしこの麗しい夫婦に、子供はできなかったのです。これも後に事をこじらせることとなりました。実朝の死後、まっさきに彼女は出家します。その後、京都朝廷の天皇家・貴族と、鎌倉幕府の北条氏が敵対し戦に発展した承久の乱では、兄たちが幕府に敵対しました。亡き第3代征夷大将軍の正妻の助命嘆願によって、彼らは命を助かっています。「御台所」として、激しい人生を送った女性だったのですね。

和歌と朝廷と官位と――源実朝の14年間

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Hannah – Japanese Book 『國文学名家肖像集』, パブリック・ドメイン, リンクによる

さてこのようにして第3代征夷大将軍となった、少年・実朝。側近に北条義時、大江広元、和田義盛などを迎え、やさしい妻をめとり、いざ御家人たちのパワーバランスの調整や、民衆の生活改善、朝廷とのやりとり、お仕事はてんこもりです。数え12歳から、26歳(満28歳)までのわずか14年間、若い将軍は幼年時代には北条義時や大江広元に相談しつつ、政治の采配を振るいました。

和歌詠みとしての実朝と「金槐和歌集」

1203(建仁3)年征夷大将軍として政治のトップにいた若き武家の棟梁、源実朝。為政者として生まれついた彼の別の顔は、最高級の歌人でした。当時は藤原定家、鴨長明などのそうそうたる日本文学史レジェンドが居並ぶ、和歌の最後の黄金期でした。

カルタでおなじみ「百人一首」の編纂者でもある和歌の巨人・藤原定家に師事。文通で和歌のやりとりと添削を行い、麗しい師弟愛を育みました。実朝は17歳のときに疱瘡(ほうそう)を病んで九死に一生を得ています。その翌年に藤原定家に和歌30首を送って絶賛を受けました。20歳のときには鎌倉へはるばるやってきた鴨長明と会見します。鴨長明はこの鎌倉来訪の後に「方丈記」を著しました。

万葉集が献上されると「末代までの重宝です」と非常に喜び、後年は良い和歌を詠んだ罪人を放免したほど。後鳥羽院とも和歌のやりとりがありました。藤原定家が百人一首で選んだ、愛弟子の歌はこちら。

世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも

源実朝はわずか22歳でベスト・オブ・実朝とも言うべき歌集を編みます。題名は「金槐和歌集」。「金」は「鎌倉」の金へん、「槐」は大臣を意味し、「金槐」はすなわち鎌倉右大臣を示します。無邪気できれいな彼の歌は後の世の人にも長く愛されました。

朝廷とは仲が良かった?「官打ち」って一体

時の朝廷の最高権力者は、後鳥羽上皇。この時代の天皇家というのは、策士で政治家としての清濁併せ呑むスキルが非常に高く、東の幕府・西の朝廷の釣り合いはいつだってセンシティブ。そんな中で後鳥羽上皇と実朝の2人の関係は良かったと言われています。事実、雅を愛し和歌の才能にあふれる若き武家の青年をいつくしんだことは容易に想像がつきますね。

源実朝に対し後鳥羽上皇は、最終的に右大臣という高い官位を与えます。これを幕府の御家人たちは「官打ちではないか」と恐れました。「官打ち」――これは、どんどん次々と高い官位を与えて、その上で殺すという意味を持つ言葉です。源実朝は喜んで朝廷から与えられる官位を受けます。

大江広元は、北条義時と相談の上で実朝をいさめました。父の頼朝の後を継いで征夷大将軍の位を得た以上、名より実を取るべきである、と。事実、父の源頼朝は右大将という位で良しとし、朝廷に過度に接近することを控えました。しかし実朝は「そんな心配をしなくても、子孫はどこにもおりません」とだけ大江広元に返事しました。この朝廷とのバランスは、源実朝の死後、一気に崩壊します。でもそれは、のちの話。

源実朝を襲った絶望と失望

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危ういバランスのもとで成り立っていた、鎌倉幕府。新しい政体を固めるには波乱と混乱がつきもの。鎌倉時代には変や乱が陰謀がたくさん起こりました。実朝が愛した老臣がまさかの行動をとります。その根っこにあったのは、やはり北条氏。実朝を襲う悲しみ。そして彼をある人物が訪れて、ふしぎなことを言い出すのですが……源実朝はどこへ向かおうとしたのでしょうか。

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