室町時代戦国時代日本の歴史

本能寺の変さえなければ天下人だった?「三法師」の悲運を歴史系ライターがたどる

織田家の運命を決めた【本能寺の変】

1582年6月、中国地方の覇者毛利氏と雌雄を決すべく腰を上げた信長は、京都の定宿だった本能寺へ逗留します。そして信忠もまた父信長の供をするべく程近い妙覚寺へ入りました。

織田家の主力がいない空白地帯だった京都に、なぜこの二人がまとまって滞在していたのか?大きな歴史の謎は残ります。天下をほぼ手中にした慢心から来るものなのか?それとも明智光秀の謀反などまるっきり想定していなかったのか?いずれにしてもその行動が織田家の運命を決定付けました。

明智勢が本能寺へ殺到しているという知らせを受けた信忠は、すでに信長が討たれたと聞くや、敵を迎え撃つべく二条御所へ移りました。大軍の明智勢相手では逃げ切れないと判断したのでしょうか。わずかな手勢で迎え撃つも最後は自害し、この世を去ったのです。享年26。

いっぽう三法師はこの頃、居城の岐阜城にいたと思われますが、前田玄以らに連れられさらに清洲城へと避難しています。やがて羽柴秀吉が山崎の合戦で明智勢を打ち破り主君の仇を晴らしますが、織田家の当主は不在という状況になっていました。

清州会議によって織田家当主となる

1582年7月、織田家の行く末や領地分配を決議するべく尾張の清洲城において重臣会議が開催されました。通説では柴田勝家が信長の三男信孝を跡目にと推し、羽柴秀吉が亡き信忠の忘れ形見三法師を推し、結局は多数決で三法師と決まった。とされていますが、それは後年書かれた娯楽軍記【川角太閤記】の記載によるものに過ぎず、史実は全然違います。

織田家の跡目は当初から三法師と決まった上での会議でしたし、そこで決まったのは誰を三法師の後見役とするか?そして誰がどこの領地を与えられるのか?ということでした。結局は信孝が後見役となって岐阜城を与えられ、次男信雄は清洲城を与えられるということで落ち着いたのです。

それもそのはず。この時代においても血筋というものは絶対でした。たとえ幼くても当主は当主ですし、そこに異論を差しはさむ余地はないのです。

三法師をめぐる重臣間の争い

跡目は三法師が継ぐと既定路線で決まっていたものの、三法師を手元に置くことで実質上の権力を握ろうとした者がいました。そう、羽柴秀吉です。

秀吉は自らの養子になっていた信長の四男秀勝を喪主にして、信長の葬儀を京都大徳寺で執り行います。この際、柴田勝家と織田信孝は招待されなかったために大きな不満を抱くことになりました。

清州会議の決定事項の中に「三法師を安土城へ移して養育させる」というものがありましたが、秀吉に対して不信感を持った信孝は手元に三法師を留め置いたまま、いっこうに安土城へ移す気配がありません。

ちなみに安土城は明智勢もしくは織田信雄が放火して焼け落ちてしまったという通説がありますが、それは少し違います。確かに焼けましたが、それは本丸部分だけのこと。実は多くの建造物は健在だったのです。だから信長死後も安土城はしばらく織田家の象徴であり続けました。安土城発掘調査の際、天守台、黒鉄門以外で焼土層は見つからなかったことが明らかになっていますね。

信孝の行為を「規約違反だ!」として秀吉サイドは非難し、さっそく岐阜城が大軍勢によって包囲されました。時期は冬。北陸に本拠地を持つ柴田勝家の援軍もままならぬまま信孝はあっさりと降伏します。信孝は後見人としての役目を外され三法師も取り上げられてしまいました。

賤ヶ岳の戦い

やがて雪解けの季節を迎えて勝家の軍事行動が容易になると、事態は再び対立の様相を見せ始めます。2月に勝家らと同調した滝川一益が兵を挙げ、羽柴軍を迎えて頑強に抵抗しました。

やがてその隙を見計らって北国から勝家が3万の大軍を率いて琵琶湖の北岸へ進出。信孝はまたもや岐阜城で兵を挙げることになりました。しかし運は勝家たちに味方せず、賤ヶ岳においてよもやの敗戦。勝家は居城で自害し、一益も降伏。そして兄信雄の軍に降伏した信孝は、今度ばかりは許されるはずもなく自害に追い込まれたのです。

このように三法師を中心にめまぐるしく動いた政局は、最終的に秀吉の元に帰することとなり、織田家当主としての三法師の立場も微妙なものとなっていきました。

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