室町時代戦国時代日本の歴史

本能寺の変さえなければ天下人だった?「三法師」の悲運を歴史系ライターがたどる

豊臣政権に組み込まれた織田秀信

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不明 – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

織田家の主導権争いの渦中に巻き込まれた三法師でしたが、織田家の衰退と共に彼もまた豊臣政権の傘下大名として生きることを余儀なくされます。彼が元服後、どのような人生を辿っていくのか見ていきましょう。

元服して「織田秀信」と名乗る

信長の次男信雄は、賤ヶ岳の合戦をはじめとする一連の戦いで信孝を追い落として自害させ、三法師の後見役として収まりました。しかし織田家の権威を徐々に簒奪しようとする秀吉と反目し、ついには徳川家康をも巻き込んだ戦いに発展します。世にいう【小牧の役】ですね。

戦いの最中、秀吉の甘言に乗せられた信雄は、織田宗家の継承と領地割譲という条件によって秀吉と和睦。秀吉に取り入ることによって織田家の家督を相続したわけです。そうなると嫡流である三法師の立場は微妙なものとなりました。

1588年に三法師は岐阜へ入り、9歳にして元服し「秀信」と名乗りました。ちなみに織田家の人々の名乗りに関して、多くは「信〇」といったように、先に「信」が付くことが多かったわけですが、秀信の場合は先に秀吉の「秀」が付いていますね。こんなところにも秀信の微妙な立場が表れているといえるでしょう。

とはいえ織田嫡流の血筋ですから名誉だけは与えられました。元服と同時に従四位下侍従という高位に任官し、同年には後陽成天皇の聚楽第行幸にもお供しています。

信雄の没落によって再び織田家の当主に

1590年に起こった小田原の役の結果、徳川家康が関東へ移封することに決まり、織田家当主の座に収まった信雄は、家康の旧領への転封を命じられました。ところが妙にプライドが高かった信雄はこの転封を拒絶。逆に秀吉の怒りを買ってしまい改易の憂き目に逢ったのです。

もちろん織田家当主の地位も剥奪され、今度は秀信のところへ当主の座が転がり込むことになりました。有名無実となった当主の座でしたが、秀信にとっては祖父や父が継いできた跡目にようやく収まったという安堵感でいっぱいだったのではないでしょうか。

1592年、秀吉の養子秀勝が死去し、その遺領も含めて13万石の大名となった秀信。中納言に任官し【岐阜中納言】と呼ばれました。徳川家康や前田利家に次ぐ官位となったわけですが、秀信に対する秀吉の計らいが透けて見えますね。仮にも秀吉にとって旧主の嫡孫。その地位を重んじることで信長に報いようとしたのでしょうか。

ルイス・フロイスがそのことについて記録していますね。

 

関白は信長の孫息子(秀信のこと)に、高麗で死んだ甥の一人の遺産を渡した。彼がさほどに大きな力の持ち主、かつ偉大な人にならなかったため、持っていたわずかな収入の半分は関白にとられてしまった。

引用元 「イエズス会日本報告集 V期2巻」より現代訳

 

のちの唐入り(朝鮮出兵)で明を倒した暁には、秀信を朝鮮王として封じようという心積もりもあったそうです。

秀信、キリシタン大名となる

秀信はその後の朝鮮出兵でも海を渡って参陣しています。第二次晋州城攻防戦では4千の兵を率いて戦いに加わりました。とはいえ秀信のような貴人に継続的に戦いを強いることなく、同年には帰国していますね。

また秀信は祖父信長の血を引いているせいか、様々なことに関心が深く、キリスト教への理解もあったといいます。1595年に弟秀則と共に入信し、洗礼名を【ペトロ】といいました。彼自身、表立った活動をした記録はありませんが、領内に教会などを建設し、積極的に保護に努めました。そのためもあって美濃・尾張には爆発的に信者の数が増えたそうで、若年ながら政治にも大きな関心を示して善政を敷き、領民から大いに慕われていたそうです。

こうして秀信の地位は安定するかのように思えました。しかし秀吉の死を契機にまたもや彼の運命は暗転していくのでした。

運命の関ヶ原合戦と、その後の秀信

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豊臣秀吉の死を契機に、次期天下人を狙っていた徳川家康と、そうはさせたくない石田三成らの対立は高まっていました。やがて家康の会津征伐をきっかけにして三成らが挙兵。いよいよ関ヶ原の戦いが始まったのです。この時、秀信はどのような決断を下したのでしょうか。

織田家復興のため西軍に味方する

当初は秀信も会津征伐軍に加わるために戦支度をしていました。しかし軍装を整えるのに思ったより時間が掛かり、その隙を突くかのように三成から書状が届いたのです。

「西軍に味方すれば美濃・尾張二か国を進呈する。」

秀信はすかさず応じました。織田家と関わりの深い尾張・美濃を手に入れれば、必ずや織田家を再興し昔日の勢いを取り戻せるだろうと。

三成のほうも、かつての天下人「織田家の嫡流」を味方に付ければ、必ずや態度を決めかねている勢力も西軍に靡くだろうと考えました。三成が信州の真田昌幸に宛てた書状の内容からもうかがえますね。

 

「拙者儀、先づ尾州表へ岐阜中納言殿(秀信)申し談じ、人数出し候。福島左太只今御理り申し半ばに候。相済むに於ては、三州表へ打ち出すべく候。もし済まざるに於ては、清須へ勢州ヘ一所に成り候て行に及ぶべく候。猶異事申し承るべく候。」

引用元 「真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状」真田宝物館蔵

「私は岐阜中納言殿(秀信)と相談し、まず尾張へ軍を出そうと決めました。福島正則に対しては今のところ調略している最中です。うまく事が運んだならば三河へ打って出ようと思っています。もしうまくいかなかった場合は清洲や伊勢へ一緒になって打って出るつもりです。良い返事をお聞きしたいと願っています。」

 

織田家の旧家臣が多かった美濃・尾張あたりの大名たちがさっそく味方に入り、秀信は木曽川を防衛ラインとして自らの軍勢を布陣させました。

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