関ヶ原本戦を前に降伏開城
三成はじめ秀信らの思惑とは違い、東軍の動きは急でした。この時、岐阜城下の米野という場所で池田輝政、福島正則らの東軍と戦いますが利あらず敗退。多くの重臣も討ち死にし、岐阜城へと追い詰められました。
この時、秀信は西軍の大垣城や犬山城に対して援軍要請を行っていますが、結局援軍が現れることはありませんでした。もしかしたら三成はじめ西軍主力がもっと早く木曽川のラインまで到達して防衛線を張っていたなら、秀信の運命もまた違ったものになっていたのかも知れません。
いずれにせよ秀信は敵より少ない兵力で野戦を挑んで敗れ、岐阜城へ籠城するものの残った兵力は少なく、落城は時間の問題でした。寄せ手の池田輝政はかつて岐阜城主だったこともあって、城の構造を熟知していたことも秀信にとっては大きな痛手でした。
落城寸前となり、ついに自害を決めた秀信でしたが、輝政の説得に応じて開城。降伏の証として剃髪した上、尾張の知多へと送られました。
高野山へ蟄居
関ヶ原の合戦で西軍が敗北し戦後処理が始まると、秀信の所領は没収され命は助けられたものの高野山へ蟄居を命じられることになりました。
高野山は罪を得た者でも受け入れ、功徳を積むことでその罪が消えるという聖地ですが、高野山側は秀信の受け入れに難色を示します。それもそのはず、秀信の祖父信長はかつて高野山を目の敵にし、高野聖を3千人も処刑するという所業をやってのけたからです。「魔王信長の孫など受け入れるべきではない!」そのような声が多かったことも確かでしょう。
秀信の入山は許されますが、5年後には高野山を追放されて山麓にある向副村へ閉居しました。村人の情で善福寺の一隅に住み、そこで村の娘との間に一子をもうけたともいわれています。
やがて病気となり、秀信は26歳という短い生涯を閉じることになりました。
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時代の流れに翻弄された三法師こと織田秀信
盛者必衰は世の習い。とは言いますが、織田秀信の流転の人生はまさに大海に浮かぶ小舟のよう。しかし関ヶ原で負けたとはいえ、秀信がなぜあれだけ不遇の後半生を送ることになったのか?おそらくかつて天下を統べた織田嫡流の血脈を徳川家康が残したくなかったからだという説もありますね。