対英米の協調外交
原が首相に就任したころ、ヨーロッパでは第一次世界大戦の戦後処理を話し合うヴェルサイユ会議が開かれていました。原は英米との協調を外交の主眼とします。
まず、欧米からの非難が強い中国の段祺瑞への支援を打ち切りました。次に、アメリカ大統領のウィルソンが提唱した国際連盟にも加盟。日本は常任理事国となりました。
さらに、寺内内閣時代からの懸案だったシベリア出兵については撤兵の方向で話し合いを進めます。実際に日本軍がシベリアから引き上げたのは原の暗殺後のことですね。
1921年、アメリカ大統領ハーディングの提唱によってワシントン海軍軍縮会議が開かれると、原は海軍大臣の加藤友三郎を派遣。英米と主力艦の保有比率について話し合いをさせました。
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交通機関の整備と高等教育の振興
内閣総理大臣になると、原は四大綱領の実施をはかりました。四大綱領とは、「交通機関整備」、「産業及び通商貿易の振興」、「国防の充実」、「教育制度の改善」です。特に原が熱心に進めた国内政策は鉄道の敷設拡大でした。
当時、鉄道は最も重要な交通機関です。鉄道が地域を通るかどうか、駅が設置されるかどうかは地方経済にとって重要な問題でした。原は、鉄道院を鉄道省に昇格させ鉄道網の充実を図ります。同時に、道路についても整備を進めました。
原は高等教育の拡充にも力を入れます。1918年に大学令や改正高等学校令、改正帝国大学令などを公布しました。その結果、慶應義塾や早稲田、明治などが大学に昇格。高等学校も17校に増えます。
原の政策は地域への利益誘導と批判される側面もありますが、地方の経済発展や高等教育の充実に寄与した面も評価するべきでしょう。
普通選挙への消極的態度
原は爵位を持たず、衆議院議員として政治家人生を歩んできました。そのため、人々は「平民宰相」として原を支持します。
庶民が原に期待したことの一つは、普通選挙を実施することでした。普通選挙とは年齢制限以外の投票条件を撤廃し、誰でも投票に参加できる仕組みです。
大日本帝国憲法が制定されたとき、選挙権は直接国税15円以上を治める満25歳以上の男子に限られました。これでは、全人口の1パーセント程度しか投票できません。
国民の意識が高まった大正時代には、普通選挙の実施を求める「普選運動」が盛んにおこなわれます。しかし、原は普通選挙の実施は時期尚早だとして実施を拒否。かわって、納税資格を3円に引き下げました。
これにより、有権者数は300万人余となります。それでも、全人口比で5.5パーセントにすぎないことから、人々は原の改革を不十分だと考えました。
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東京駅にて暗殺
1921年11月4日、原敬は首相官邸を後にして東京駅へと向かいました。原の目的は京都で行われる立憲政友会の会合に出席することです。
原が列車に向かいホームを歩いていると、突然、何者かが原に対して刃物を突き刺しました。原は右胸を刺し貫かれます。原は駅長室に運ばれましたが、駆けつけた医師に出来たことは原の死亡を確認することだけでした。享年65歳。
原を刺殺したのは鉄道省職員で山手線の駅員だった中原艮一(こんいち)でした。逮捕後、中原は原が普通選挙を実施しなかったことなどに腹を立て、刺殺したと供述します。
原の死は直ちに全国に伝えられました。立憲政友会は卓越した政治家である原を失って混乱します。
急遽、原の後を受けて組閣の待命を受けたのは高橋是清。しかし、混乱する政友会を立て直すことが出来ず、結局、半年後に内閣総辞職に追い込まれました。支柱を失った政友会は力を取り戻すのに、かなりの期間を要します。
原が暗殺されていなければ、日本の政治が変わっていたかもしれない
原は戊辰戦争に敗北した東北諸藩の出身で、明治時代初期には決して有利な立場ではありませんでした。しかし、陸奥宗光の引き立てにより外務官僚として出世を重ね、立憲政友会に参加することで政党政治家としてのキャリアを積みます。藩閥勢力のドンともいえる山県有朋は政党嫌いで有名でしたが、原に関しては高く評価していました。原の早すぎる死は、日本の政党政治に大きな打撃を与えたのではないでしょうか。