中国の歴史

日本と中国に翻弄された「宣統帝(溥儀)」の波乱万丈な人生を解説

国共内戦の始まりと東陵事件

こうして日本大使館に保護され、天津で静かな生活を送っていましたが、1927年に上海クーデターが発生。これによって国民党と共産党が争うこととなり、北京を支配していた張作霖は揺れ動くことになります。

さらに1928年に張作霖が日本軍によって爆殺。息子の張学良が国民党に服従したことで中国の東北地方も征服するのですが、これに困ったのが溥儀でした。

国民党は河北省にあった清東陵を国民党側の軍閥が略奪する東陵事件が発生します。

清東陵は清にとったらとても重要な墓でここを荒らされるのは溥儀にとったらたまったもんじゃありません。しかし、国民党はこのことを不問にしたことによって溥儀は国民党に不信感を抱くようになりました。

これは溥儀にとって人生の中でも特に屈辱的なことだったそうで、これが原因で日本と協力するようになったと言われています。

満州事変、清復興への道のり

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清の復興を目指すようになった溥儀ですが、この頃日本はとんでもない事件を起こしている真っ只中でした。

1931年に満州事変が勃発。関東軍によって南満州鉄道が爆破されたこの事件によって満州の重要拠点を次々と占領。満州は関東軍のものとなりました。

しかし、日本が満州を支配するとイギリスやフランスからの抗議を受けることはあきらか。そこで関東軍はこの満州から身を起こした清の皇帝である溥儀を擁立して正統性のある国家へと変貌を遂げようとしたのです。

溥儀としてもこの提案は願ったりかなったり。

溥儀は天津の自宅から満州に向かい、そして満州国は建国されたのです。

挫折する思いと満州国皇帝としての溥儀

こうして満州国が成立。中国からの分離独立を果たし、溥儀からしたら新しい人生のスタートを切るはずだったのですが、これは溥儀が思っていた結果とは真逆の方向に向かっていました。

満州国は国際連盟からの非難を浴びてリットン調査団を派遣した上で日本の独断によるものだと断定。これによって日本は国際連盟から脱退して孤立が進むことになるのですが、この満州国はほとんど日本の領土と変わりない状態にありました。

溥儀は1934年に皇帝に就任し、康徳帝と名乗るようになるのですが、実際には関東軍による操り人形。溥儀が目指していた清復興など関東軍からしたら全く望んでいないことで政治のほとんどが関東軍に握られていました。

1935年には溥儀は日本に来日することが決定して、昭和天皇直々に東京駅に出迎えるという対等な立場での来日となりましたが、溥儀は基本的には生活の全てに関東軍のスパイがいると疑心暗鬼になっていたそうです。

しかし、それでも溥儀は満州国の皇帝としての務めを果たしていくのですが、ついに溥儀の人生を変えるもう一つの出来事が起こってしまったのでした。

日中戦争と満州国

1937年7月7日。日中戦争が勃発したことによって日本は中国と戦うことになりました。満州国はある程度の義勇軍を送ることはしましたが、基本的には自国の防衛に専念していたこともあり日中戦争には消極的でした。

その後1940年に溥儀が2度目の来日をした際には伊勢神宮に参拝。日本と満州国の関係を世界にアピールしていました。

満州国崩壊と3度目の退位

日中戦争は日本の有利に進んでいましたが、1941年に太平洋戦争が起こると日本の立場は一気に苦しくなっていきました。

ジリジリと日本は後退していく中、満州国は自国の防衛に専念するのですが、満州国は時代が経つごとに日本に対して食糧を輸出することになっていき、さらには爆撃機が満州国に爆撃するなどの被害を受けるようになりました。

そして1945年に満州国は北にあったソ連の侵攻を受けるようになり、軍が出払っていた満州国は一瞬にして崩壊。日本がポツダム宣言を受諾した2日後の8月17日に国務院が満州国の解体を宣言し、溥儀は再び降伏することになりました。

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