中国の歴史

日本と中国に翻弄された「宣統帝(溥儀)」の波乱万丈な人生を解説

ソ連の抑留

満州国皇帝を退位した溥儀は日本に亡命しようと画策しますが、その途中にソ連の空挺部隊によって捕縛。溥儀はソ連のシベリア地方にあるハバロフスクの強制収容所に収容されることになりました。

さらに、1946年の東京裁判の時には連合国側の証人として参加。日本の傀儡となっていたことを主張しましたが、証拠不十分であまり証拠にはならなかったそうです。

その後、1950年には新しく中国に成立した中華人民共和国の強制収容所に収監。

ここで共産主義に馴染むための再教育が行われていき、1959年まで収監されることになりました。

恩赦後の静かな生活

こうしてかつて皇帝として威厳を放っていた溥儀は囚人として収監するようになりましたが、1959年に劉少奇の恩赦が出されたことで出獄。これには周恩来首相が溥儀の境遇を哀れんだからや、ニコライ2世を銃殺したソ連との差別化を狙ったとも言われていますが、その後周恩来と会談し彼の勧めもあって北京の植物園の職員として再就職することになりました。

その後、全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行うようになり、1964年には漢民族と満州族の融和の象徴として政協全国委員の委員に選出され、中国共産党の一員としての晩年を過ごすことになりました。

その後中国では文化大革命が起こり、旧体制が次々となぎ倒されていき、溥儀の立場もかなり危うくなっていく中1967年に溥儀は北京の病院にして死去。その後溥儀は清の皇帝の陵墓である清西陵のそばに埋葬されました。

溥儀は日本と中国の歴史の狭間にいた皇帝だった

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溥儀は赤ちゃんの頃に皇帝になったと思えばすぐに国が崩壊し、その後日本に操り人形にされたのちに中国共産党の一員になるという中国の皇帝の中では類を見ないほどの数奇な生涯を歩んでいました。

溥儀は中国最後の皇帝ながらも、激動の時代を生き抜いていたのですね。

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