最盛期の唐を衰退させた「安史の乱」とは?詳しく解説
史思明の暗殺によって反乱は終わった
一方、洛陽で自立した史思明は、一時唐軍に降伏しますが、粛宗が彼の暗殺を目論んでいることを知って、再び反乱を起こして、大燕皇帝を名乗ります。このため、安禄山の乱というよりも安史の乱と言われることが多いのです。しかし、史思明も長男との不和から暗殺され、ついに長期間にわたった戦乱は終息することとなりました。
安史の乱が治まっても唐の力は衰退した
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史思明の反乱も終息し、唐王朝は復活しましたが、かつての繁栄を取り戻すことはできませんでした。それには、2つの要因がありました。
1つは、安史の乱を制圧するためにウイグル帝国の支援を受けたことです。彼らなしには唐王朝の復活はなかったことから、以後はウイグル帝国に毎年金銀、絹などを寄贈することを要求され、実の王女を降嫁させざるを得ませんでした。それ以降も、ウイグル帝国とは争い事が絶えなかったのです。
もう1つの要因は、安禄山に限らず、節度使が力を持ち、朝廷のいうことを聞かなくなってしまったことでした。北方民族の侵略を防ぐために彼ら節度使を処分することもできず、唐王朝にその力もありません。たびたび、小さな反乱も起こるようになったのです。
そのため、唐王朝の財政は逼迫し、力は次第に衰えていきました。そして、9世紀後半に黄巣の乱(こうそうのらん)が起こり、10世紀はじめに唐は節度使によって滅ぼされたのです。
悲しい悲哀の長恨歌に残る中国の皇帝の末路_安史の乱の意味するところ
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唐の第6代玄宗皇帝は、即位当時の前半期には「開元の治」と呼ばれるほど賢帝として有名でした。しかし、晩年には楊貴妃に惑わされて国政を省みないようになり、結果的に安史の乱を発生させて、寵妃であった楊貴妃まで死に追いやってしまったのです。
白居易の長恨歌にも悲劇として詠われましたが、人間、長く権力の座にいると政治は緩んで狂ってしまうことを示しています。日本も、1955年以降、安定した時代が続いていますが、その軋みがさまざまに生じてきているのです。しかし、私たちはそれに気がついていません。しっかりと、もう一度この国のあり方について見直して見る必要があるのではないでしょうか。
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