中国の歴史

最盛期の唐を衰退させた「安史の乱」とは?詳しく解説

唐の軍隊は平和に慣れて弱かった

玄宗皇帝は、司令官を交代させて、都を守ろうとしましたが、司令官の力が弱く、全軍を統率することができませんでした。さらに唐軍内部でも対立が続出するようになります。平和な時代が100年以上続いたことによって、都の守備を任せられる人材がいなくなっており、軍隊そのものも戦える集団ではなくなっていたのです。

そのため、安禄山の軍を迎え撃つことはできず、大敗を喫してしまいました

玄宗皇帝は安史の乱によって楊貴妃を連れて都長安を逃れる

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唐軍の敗北の情報を聞いて長安はパニックになり、楊国忠の進言によって玄宗皇帝をはじめとして朝廷の役人や軍人は長安を捨て、山深い蜀に敗走してしまったのです。

楊貴妃とその一族に対する兵士たちの反乱と楊貴妃の処刑

しかし、蜀への敗走の途中で思わぬ出来事が起こります。護衛の兵たちが反乱を起こして、安禄山の乱を引き起こした責任は楊国忠とその一族にあると糾弾し、楊国忠とその息子、兄弟たちは兵士たちに殺害されてしまったのです。さらに、兵士たちは、その根本原因には、皇帝を惑わせた楊貴妃にあると主張しました。ほとんど見る影もなくなった玄宗皇帝は、これに抵抗することさえできず、泣く泣く楊貴妃を絞殺させたのです。

この悲劇は、その地名をとって、「馬嵬駅の悲劇」と呼ばれ、白居易の「長恨歌」のクライマックスにもなっています。

失意の玄宗皇帝は、すぐに退位し、皇太子の李亨が粛宗として即位しました。そして、すぐに安禄山の反乱の鎮圧に向けて指揮を執ったのです。

粛宗とウイグル帝国による安史の乱の終息

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帝位に就いた粛宗は、安禄山反乱の鎮圧に向けて指揮を執り、彼は西方の隣国であるウイグル帝国に援軍を要請します。ウイグル帝国はこの要請に応じました。現在の中国では、漢民族中心の中国政府はウイグル族の地域を支配して、彼らに中国化を迫っています。しかし、当時は独立国であり、逆に中国の唐に助けを求められるほどの強国だったのです。

唐・ウイグル連合軍の反撃と安禄山の暗殺

安禄山の軍隊は、長安を落とした後も、軍隊を粛宗のいる蜀に向かわせます。しかし、ウイグルと唐の連合軍は合流して、安禄山軍を迎え撃ち、これを撃ち破ったのです。

さらに、安禄山そのものも長安で失明して精神的におかしくなり、凶暴化して757年に皇太子一族に暗殺されてしまいます。皇太子が燕国の皇帝になるものの、安禄山の部下であった史思明は彼に従わず、洛陽に帰って自立してしまったのです。

唐軍とウイグル軍による長安の奪回

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安禄山軍を撃破した粛宗は、自身の軍とウイグル軍を長安の奪回を目指して南進を開始させます。そして激戦が繰り返された後、ついに唐軍は燕軍を大敗させ、残った燕軍は、長安、洛陽から撤退していきました

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