日本の歴史飛鳥時代

聖徳太子の夢を運んだ「遣隋使」とは何だったのか?詳しく解説!

遣隋使の派遣に対する隋の対応

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聖徳太子が派遣した遣隋使に対して隋の煬帝はどのような様子だったのでしよう。この点については、歴史の教科書などによく記載されていますね。

「日出ずるところの天子、日没するところの天子に致す」

隋書によると、600年に派遣された遣隋使の小野妹子に奏上文の国書を持たせていました。聖徳太子は、姓を阿毎(あめ)として字を多利思北孤(たりしひこ)と名乗っています。また、日本書紀にもある607年にも小野妹子を正使としてする遣隋使を送っています(実際には600年に送られたものと同じという説も有力)。その国書は、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙(つつが)無しや」という有名な言葉で始まる挨拶から始まっていました。それを聞いた隋の煬帝は非常に立腹したと伝えられています。また、それまでの中国王朝に対する朝貢使節は、自身を「倭国」(隋書には「俀國」)と名乗っていましたが、初めて日本国と名乗ったことでも有名です。

隋の煬帝は怒ったが聖徳太子の期待に応える

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隋の皇帝煬帝(ようだい)は、怒りますが、結局は聖徳太子の姿勢に同意して、留学生、留学僧たちを都の長安で勉強させてくれるとともに、小野妹子が帰る時には、煬帝の使いとして裴世清を来日させてくれたのです。

均田法(班田収授法)と中央集権のみやこ_長安

中国の隋は、中国の混乱の五胡十六国時代を終わらせ、久しぶりの統一王朝を成立させていました。初めて(実際には北魏が最初)農民に均田(班田のことで、均等に土地を分け与えた田)を与えて、そこから生まれる農民の稼ぎから税金を取る税制制度を取り入れていたのです。それを、中央の朝廷から派遣された官僚が税金を徴収する仕組みを取り入れていました。遣隋使として派遣された若い人たちは、その仕組みを勉強して持ち帰ってこの日本で中央集権政治を実現しよういう聖徳太子の目標をよく理解して学んでいたのです。

結果としては遅かった遣隋使の帰国

しかし、大和朝廷内には大きな変化が生じていました。すなわち、聖徳太子を表面的には擁護していた蘇我馬子が死去し、その息子である蘇我蝦夷が朝廷での権力をつかんでいたのです。蝦夷は、その息子の蘇我入鹿とともに、聖徳太子の政策をことごとく否定し、太子の目指す中央集権政治を拒否したのでした。そのため、聖徳太子は、朝廷には出ずに斑鳩の里に引きこもるようになってしまったのです。推古天皇も太子を守ることはできず、朝廷では蘇我氏の独裁体制が強まり、太子に同調する豪族は退けられていきました。その中で聖徳太子は、夢を実現することもなく、悲憤のうちに亡くなったのです。

戻ってきた遣隋使たちの行動の結果

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遣隋使の若い人材たちが帰国したのは、そのような時期でした。そのため、せっかく隋の長安で学んできた新しい政治形態の中央集権政治は実現させることができず、政治に参加することはできなかったのです。同じく政治に参画できない中小豪族の師弟たちを集めて、彼らの学んできた新しい政治について講義するに終わっていました。しかし、その集めた師弟たちの中には、有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)やその弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らがいたのです。彼らは、蘇我氏が牛耳る朝廷のあり方に不満を持ち、それをくつがえそうと決意するのでした。

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