聖徳太子の政治の夢を乗せた遣隋使
聖徳太子は、西暦600年にいよいよ太子の中央集権政治の夢を乗せて遣隋使を送り出しました(日本書紀には記載がありせんが、隋書には記録が記載されています)。朝廷内には、豪族たちの力が強く、思うような政治ができない聖徳太子は、中央集権政治を理解できる若い弱小豪族たちの子息や若い僧を選抜して、遣隋使を送ったのです。数回にわたった遣隋使の中には、歴史の教科書にも出てくる、高向玄理、南淵請安、僧旻らがいました。彼らを育成することによって、自分の政治の夢を実現するためのブレーンを増やそうとしていたのです。
遣隋使の派遣は聖徳太子の壮大な夢を乗せていた
遣隋使の派遣は、朝廷内では無視されがちで、むしろ反対のほうが多かったと言えます。しかし、遣隋使を派遣することは、自身の夢を実現するために欠かせないものになっていた聖徳太子は強行せざるを得ませんでした。
聖徳太子は天皇中心の中央集権政治を目指して中国の隋にそのモデルを求めた
聖徳太子の目指した中央集権政治のモデルは、隣の中国に新しく誕生した隋でした。中国では、三国志の時代の後に成立した司馬氏の晋が北方民族によって滅ぼされた後は、外来民族が次々と王朝を建てる五胡十六国の時代で、混乱していたのです。そのため、300年ほど統一された王朝はなく、隋の前身である北魏においてようやく統一王朝となり、混乱の時代を終わらせました。その北魏も2つに分裂しましたが、それを統一したのが煬帝の隋でした。
隋では、均田法という後に日本で取り入れられた班田収授法による律令政治がおこなわれ、首都長安に強い皇帝を中心とした中央集権政治体制が打ち立てられていたのです。そのことを高句麗の僧慧慈から聞いていた聖徳太子はこの隋の政治、仏教政策などを学ばせるために遣隋使を送ろうとしました。
豪族たちには、政治を学ばせることは伏せて、隋に朝貢貿易をすれば、大きな実利が得られることを強調していたのでしょう。それによって、ようやく国を挙げて遣隋使を送ることが可能になったのです。
聖徳太子の忠実な臣下だった小野妹子(おののいもこ)を遣隋使に
聖徳太子は、この遣隋使の正使に、聖徳太子のよき理解者の臣下だった小野妹子(おののいもこ)を抜擢します。聖徳太子のよき理解者で後ろ楯になっていたのは、今の京都である山背国(やましろのくに)の豪族であった秦河勝と小野妹子くらいでした。朝廷内には味方は極めて少なかったのです。その一人である小野妹子を遣隋使に派遣したところに聖徳太子の覚悟が見てとれますね。
聖徳太子をバックアップした秦河勝
一方の秦河勝とその一族は、6世紀に朝鮮半島を経由して渡来した民族で、商才があり、資材をなげうって聖徳太子をバックアップしていました。京都の太秦広隆寺には聖徳太子像があるように、太子の仏教への帰依にも強くバックアップしていたのです。そのため、京都の右京区には多くの聖徳太子ゆかりの場所が残っています。
多くの学問を目指す人材を送り込む
遣隋使には、多くの学問を目指す、大豪族には属さない若い人材が送り込まれました。高向玄理、南淵請安、僧旻などは後に中大兄皇子などとともに大化の改新を実現させた人々が多くいたのです。
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