為政者のプロパガンダとなるメディア
政府の情報統制によってプロバガンダと化すメディアの存在も見逃せません。プロパガンダとは「特定の政治的意図をもってその考えを国民に宣伝する行為」のことで、ここでは広告塔となって政府にとって都合の良い情報ばかりを垂れ流し、国民を煽動する目的があります。
戦前戦中の日本では「国策」として新聞雑誌などのメディアが統制され、ありもしない大戦果が報道されるなど国民の戦意高揚のために利用されました。ナチス時代のドイツでもその種のプロパガンダは最大限利用され、国民主体によるユダヤ人排斥運動を煽動しました。
現代でもプロパガンダとして利用されるメディアがなくなることはありません。北朝鮮の朝鮮中央放送は、国内問わず海外へ向けても「軍事強国」として勇ましい報道やアピールを繰り返し、たとえ国民が貧しく飢えに苦しもうとも強気の姿勢を崩そうとはしないのです。
勝者なき戦い【ボスニア・ヘルツェコビナ紛争】
1992~1995年にかけてヨーロッパのバルカン半島で起こった民族紛争がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でした。民族・宗教・歴史など様々な要因が入り混じって民族浄化へ発展しましたが、今も人々の記憶に消えることない爪痕を残しているのです。
紛争の火種が消えることがなかった地域
バルカン半島は地形的に見ても山地が多く、多数の民族が存在していた地域でした。主要な民族はボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人などがいて、19世紀後半にオスマン帝国の支配を離れるまでは平穏な時代を過ごしていたのです。
ところがオスマン帝国が衰退してボスニア・ヘルツェゴビナの施政権をオーストリア=ハンガリー帝国に譲ると風向きが変わってきました。オーストリア=ハンガリー帝国に好感を持たないセルビア人たちは「大セルビア主義」を掲げ、公然と反発するようになったのです。
結果、サラエボ事件(セルビア人の青年がオーストリアのフェルディナント大公を暗殺した事件)によって第一次世界大戦が勃発することになりますが、終戦後にオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域は首尾よく独立を果たしてセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(のちにユーゴスラビア王国)を建国しました。
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民族間の不和と対立が深まった第二次世界大戦
しかし新たに建てられた国は発足当初から民族間に大きな不和を抱えていました。独立を果たした手柄だとして、政治の実権はセルビア人が握っていたからです。これに異を唱え民族運動を推し進めたのがクロアチア人で、民族間の対立は深まっていきました。
これをうまく利用したのがヒトラー率いるドイツでした。ドイツがユーゴスラビアに侵攻した混乱に乗じてクロアチア人たちが蜂起し、ボスニア・ヘルツェゴビナの大半を支配する「クロアチア独立国」を建国するに至ります。ドイツの傀儡となり政権を握った民族主義団体「ウスタシャ」は、恨み骨髄のセルビア人たちに復讐するべく大量殺戮に踏み切りました。一説には100万人ともいわれるセルビア人たちが殺され、のちに大きな禍根を残すことになりました。
またセルビア人側も対抗してパルチザン組織「チェトニク」を組織し、ドイツ軍だけでなくクロアチア人やボシュニャク人に対しても敵意をむき出しにして虐殺行為を繰り返したのです。まさに血で血を洗う紛争が繰り広げられ、これが後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の遠因ともなりました。
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