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3度に渡りカシミール地方などをめぐって争われた「印パ戦争」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

2019年12月、インドのモディ政権が周辺国からの不法移民に対し、イスラム教徒を除き国籍を与えると決定しました。これに対し、イスラム教徒を中心に反発が強まります。ヒンドゥー教が多数を占めるインドとイスラム教が多数を占めるパキスタンはこれまで幾度も戦争を行ってきました。印パ戦争と通称される一連の戦争はなぜ起きてしまったのでしょうか。今回は印パ戦争の背景・経緯・その後について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

印パ戦争の背景

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インドとパキスタンの戦争の背景には、イギリスによるインドの植民地支配と、イギリスが行った分割統治政策があります。イギリスはインド国内の宗教の違いを利用して巧妙にインドを統治しました。20世紀中ごろ、インドが独立しようとした時、イギリスは少数派のイスラム教徒の後ろ盾となって独立運動の抑制をはかりました。1947年、インド独立法が制定され、インド、パキスタンが分離独立します。

イギリスによるインド支配と分割統治

1857年、イギリスの植民地支配に対してインド大反乱が発生しました。イギリス東インド会社が雇っていたインド人傭兵であるシパーヒーが起こした反乱です。1857年から59年にかけて、イギリス軍は反乱軍を各個撃破し反乱を鎮圧しました。

反乱鎮圧後、イギリスは反乱軍に担がれていたムガル皇帝を廃位ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させます。インドはイギリスの直轄領とされ、イギリス本国からインド総督が派遣されました。

19世紀から20世紀初頭、インドで独立運動の機運が高まるとイギリスは独立運動を分断するため、多数派のヒンドゥー教徒と少数派のイスラム教徒の対応に差をつけます

1905年、イギリスはベンガル分割令を出して東ベンガル(現バングラデシュ)と西ベンガルに分割。宗教を利用してインドの人々が団結しにくくなるよう画策しました。

ヒンドゥー教とイスラム教

古来、インドには『ヴェーダ』を信仰するバラモン教がありました。4世紀のグプタ朝時代、ヒンドゥー教が成立します。ヒンドゥー教がインド全体に広まったのは、誰にでも理解しやすいバクティ運動が起きたからでした。

煩雑な経典や教義にこだわらず、ひたすら神を思い神に献身する運動です。6~7世紀に南インドで広まったヒンドゥー教の教えは、12世紀には北インドに及びました

イスラム教がインドに浸透するのは10世紀のガズナ朝、ゴール朝の時代。13世紀に北インドがイスラム系諸王朝(デリースルタン朝)に支配されると、イスラム教が民衆の間にも広まりました。

イギリスがインドを植民地化したころ、北インドを中心にイスラム教が、その他の地域を中心にヒンドゥー教が信仰されています。イギリスは二つの宗教の違いに着目し、分割統治しました。

インドの独立運動

 

1885年、イギリスはヒンドゥー教徒中心の親英組織としてインド国民会議の成立を容認します。インド国民会議は、徐々に反英的組織に変化しました。

1905年、ベンガル分割令が出されるとインド国民会議のティラクらは強く反発。カルカッタで開かれたインド国民会議では、国産品愛用(スワデーシ)・自治(スワラージ)・民族教育・英貨排斥など四綱領が採択されました。

イギリスはこれに対抗するため、全インド=ムスリム連盟の設立を支援。イスラム教徒を味方にしようとします。

第一次世界大戦後、インド国民会議ではガンディーが指導者となり非暴力・不服従運動を展開しました。1929年、インド国民会議のラホール大会で指導者のネルーはイギリスに対し完全独立(プールナ=スワラージ)を要求するに至ります。

この間、イスラム教徒側は必ずしもインド国民会議と歩調を合わせず、自分たちの国家を作るべく活動しました。

インド地域の分離・独立

第二次世界大戦がはじまると、ガンディーらインド国民会議は「インドを立ち去れ運動」を開始します。イギリスの戦争に、インドの人々が巻き込まれ、兵士として戦場に送られることに対する反対の表明でもありました。

イギリスは戦争後の自治権拡大などで、独立要求を緩和させようとしましたがうまくいきません。ガンディーやネルーなど指導者がイギリスによって逮捕されたあとも「インドを立ち去れ」運動は続きました

一方、イスラム教徒は「インドを立ち去れ」運動には参加せず、イギリスが行っていたドイツや日本との戦いに協力します。

1940年、全インド=ムスリム同盟の指導者であるジンナーパキスタン決議を採択し、イスラム教徒による新たな国家の創設を明確に主張。1947年、イギリスがインド独立法を採択すると、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦とイスラム教徒の国であるパキスタンがそれぞれ独立します。

印パ戦争の経緯

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イギリスから独立後、カシミール地方の帰属をめぐってインドとパキスタンの両国は軍事衝突しました。1959年から1962年にかけては中印国境紛争。1965年に第二次印パ戦争と南アジアでは戦争が続きます。1971年、東パキスタンがパキスタンから独立を試みたことで第三次印パ戦争が起きました。三度にわたった印パ戦争についてまとめます。

カシミール問題と第一次印パ戦争

インド北西部のカシミール地方には、ジャンムー=カシミール藩王国がありました。インド独立に際し、ヒンドゥー教徒だった藩王はインドとパキスタンのどちらに帰属すべきか迷います。

藩王が迷っていた理由はヒンドゥー教徒でも、住民の80%がイスラム教徒だったからでした。少しでも領域を拡大させたいインド・パキスタンの両国は藩王に決断をせまります。

パキスタンが武力介入してきたことがきっかけとなり、1947年10月26日に藩王はインド帰属を表明しました。

介入していたパキスタン軍と藩王の要請でカシミールに入ってきたインド軍との間で武力衝突が発生し、第一次印パ戦争がはじまります。

戦いはインド軍優位で推移しました。戦闘は1948年12月31日まで続きますが、国連の調停により終結します。戦いの結果、インド軍はカシミール地方の60%を実効支配に置きました。

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