アメリカの歴史独立後

日本経済の転換点となった「プラザ合意」とは?わかりやすく解説

レーガン大統領のG5蔵相会議への要請

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米国景気が思うように回復しない状況に、レーガン大統領はついに動きます。財務長官であったベイカー氏に当時のG5蔵相・中央銀行総裁会議で、先進国が協調してドル安に動くように働きかけを指示したのです。

当時の先進5か国が要請を受けた理由

当時の先進5ヵ国は、米国、英国、ドイツ、フランス、日本で、日本の大蔵大臣は竹下登です。第二次世界大戦以降、米国の支援を受けてきた欧州や日本は、このアメリカの要請を受けざるを得ませんでした。米国の経済は悪化しているとは言え、依然として世界最大の経済規模を誇っていたのです。その米国経済がさらに悪化することは、その恩恵を受けていたほかの先進国にも大きな悪影響を与えることになったので、受け入れざるを得ませんね。

 プラザ合意によって急激にドル安が進む

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プラザホテルでおこなわれた会議で、先進国の協調体制としてドル安が容認されるというプラザ合意が発表されると、国際為替市場では、急激にドル安が進みました。日本の自動車などの基幹産業では生産を海外に移す動きがさらに出て、産業の空洞化が問題になり、景気不安が高まります。日本銀行が金利を下げて金融市場に大量の資金を投入しても、設備投資は拡大せず、消費も高まらない状況になりました。そのため、余った金融市場の資金は、株式市場や不動産市場に投入されるようになり、両市場では空前の活況を呈するようになったのです。これがバブルの始まりでした。

しかし、もともと日本国内の消費需要は高くなく、バブルによって不労所得が生じて一時的に思わぬ好景気が高まっただけだったのです、実質的な実態経済の裏付けのないバブルはいつか泡と消え去る運命にあり、数年後にはバブルは弾け飛びました。それ以降は、政策的な失敗も続き、日本の景気は長期的な低迷局面に入ったのです。

アメリカは1990年代になってようやく長期の経済低迷を脱した

プラザ合意以降も米国経済はそれほど好転しませんでした。しかし、レーガン大統領が退任した後の1990年代に入り、インターネットを中心とするIT産業の台頭によってようやく20年ぶりに経済は活況を取り戻すようになったのです。

米国では長期的な景気低迷は20年ほどでしたが、日本では、すでに30年近く続いています。日本は、バブルが崩壊し、その後の金融政策、経済政策の失敗が続き、長期的な経済低迷の時代に入っていったのです。

日本の戦後の経済成長は終わった

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バブル崩壊とともに、日本の高度経済成長以降の経済神話の時代は終止符が打たれました。それでも、日本の政治家は、経済成長を主軸に置いた政策の転換を図ろうとせず、日本社会は混沌の時代を迎えるようになっているのです。

アメリカでさえ長期低迷を脱するのに20年かかった

長期的な景気低迷は、1つの時代が終わったことから生じてきます。第二次世界大戦後に国土も経済も傷ついていなかったのが唯一米国だけであったことから、米国ではアメリカンドリームと言われる空前の経済活況が生じました。しかし、その貯金を使い果たした結果、長期の経済低迷に入ったのです。それを脱するのに、米国は20年がかかっています。

日本の場合は、戦後の高度経済成長時代から始まったエコノミックアニマルと呼ばれた経済成長は、すでにその役割を終わりかけた時期でした。プラザ合意を契機としてバブルが発生して日本経済は燃え尽きたのです。

そして、日本はすでに少子高齢化社会になり、人口は減少局面にあります。この日本の長期経済低迷は、すでに30年を経過しており、いつ回復するのかは、未だに見えていないのです。

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