閣僚や党の要職に就任
1957年、田中は第一次岸内閣で郵政大臣となりました。このとき、田中は39歳の若さです。30代での閣僚就任は戦後初めてのことでした。1961年には自民党の政調会長に就任します。政調会長は自民党の重要役職で党四役に数え上げられる要職で、現在でもニュースになりますね。
1962年、田中は池田内閣の大蔵大臣となりました。この時、新潟県を襲ったサンパチ豪雪は記録的な大雪となり、人々を苦しめます。田中はこれまで豪雪被害にて寄与されてこなかった災害援助法を適用し被災地の人々を支援しました。
大蔵大臣時代、田中は課長以上の役職者のフルネームを記憶し、すれ違う際などにフルネームで声をかけたといいます。大蔵省のプライドが高い官僚たちも、大臣が自分たちのことを知ってくれているということに心を動かされ、田中のために働くようになりました。
1965年、大蔵大臣を辞任した田中は自民党内で最も重要な役職である幹事長に就任します。これにより、田中は内閣の重要閣僚である大蔵大臣と自民党の要職である幹事長の両方を経験したことになり、有力な総理大臣候補として取り上げられるようになりました。
田中内閣の成立
1964年から7年8か月にわたって続いた佐藤栄作政権の末期、次の首相を目指し5人の有力者がしのぎを削っていました。首相争いに勝利した田中は念願の日本列島改造に手を付けます。その一方、重要課題となっていた日中国交正常化も行いました。しかし、や田中金脈問題の追及で総辞職に追い込まれます。
“三角大福中”の総裁争い
佐藤政権の末期、次の首相の座をめぐって有力候補者が競い合っていました。有力者と目されていたのは田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘の5名です。週刊誌や報道機関は彼らの名前から一文ずつとり、「三角大福中」とよんでいました。
彼らはいずれも党の要職である幹事長をつとめ、重要閣僚を経験しています。誰が次の首相になってもおかしくない状況でした。
1972年の自由民主党総裁選挙。この選挙に勝てば、自動的に首相になることができます。この選挙に田中、三木、福田、大平の「三角大福」が出馬しました。
第一回投票は1位が田中で156票、2位が福田の150票、3位が大平で101票、4位が三木で69票です。規定により上位2名の決戦投票が行われました。このとき、田中は大平、三木、中曽根の協力を取り付けます。決選投票の結果は田中が282票、福田が190票で田中の勝利に終わりました。この結果、1972年に田中内閣が成立します。
日本列島改造論
大正生まれで初めて、新潟県出身で初めて首相となった田中は支持率70%という高い支持を集めました。首相となった田中は念願だった日本列島改造に乗り出します。
日本列島改造論とは工業地帯を再配置し、交通や通信などのインフラネットワークを全国に張り巡らせ、人とカネの流れを都市から地方に分散させようという構想でした。
田中は日本列島を高速道路や新幹線、本州四国連絡橋などによって結び付け地方の工業化を推進し、東京など三大都市に集中している過密の問題と人口減少に悩む地方の過疎問題を同時に解決しようと考えます。
列島改造の方針が示されると、日本各地で列島改造ブームが巻き起こりました。特に、日本列島改造論で候補地に挙げられた地域では土地の買い占めが行われ地価が急騰します。
さらに、第四次中東戦争をきっかけにおきたオイルショックの影響で狂乱物価とよばれるほどのインフレが起きました。田中は影響を和らげるため列島改造のトーンを落とさざるを得なくなります。
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日中国交正常化
サンフランシスコ平和条約締結後、日本は台湾の中華民国と国交を回復しましたが、中国本土を支配する中華人民共和国とは国交回復しませんでした。冷戦の激化に伴い、日本と中華人民共和国は疎遠な状態が続きます。
1960年代後半、ソ連と中国が対立関係に入るとアメリカは中国との関係改善をはかりました。1972年、アメリカのニクソン大統領は中華人民共和国を訪問し世界を驚かせます。この変化をチャンスととらえた田中は積極的に日中関係の改善をはかりました。
首相就任直後、田中は「日中国交正常化を急ぐ」と発言します。これを受けて、中華人民共和国の周恩来総理は「歓迎する」と表明しました。1972年9月、中国を訪問した田中は日中共同声明に署名します。これにより、日本と中国は国交を回復しました。
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