尾崎行雄の生涯6・史上最高齢の衆議院議員に
終戦後、尾崎は議会に「世界連邦建設に関する決議案」を提出。その後は政界引退を考えていた尾崎でしたが、支持者が無断で推薦して1946年(昭和21年)の総選挙で当選しました。世界平和と民主主義国家建設のために尽力しましたが、次の選挙では体調を崩して病床での出馬となってしまいます。この選挙で落選した尾崎は政界を引退。最後に衆議院議員を務めたのは94歳で、これはもちろん最高齢記録。連続25期当選、議員勤続63年と全てが記録づくしの議員人生でした。
その功績を称えて衆議院名誉議員の称号が与えられ、東京都名誉都民(第1号)にもなりました。そして1954年(昭和29年)、直腸がんのため95歳で死去。国会の前には尾崎の業績を記念して憲政記念館が作られ、尾崎の銅像も建てられています。
民主主義と平和主義の教科書・尾崎行雄の名言集
名演説で知られた尾崎行雄は、数々の名言を残しています。議会をないがしろにする藩閥政治や軍国主義と戦い、民主主義や平和主義を擁護し続けてきた尾崎行雄の言葉は、現代でも輝きを失っていません。またその含蓄ある発言はきっと多くの人々の人生にも役立つことでしょう。
尾崎行雄の名言1・「人生の本舞台は常に将来に在り」
盟友の犬養毅が五・一五事件で暗殺され、妻も病気で失った尾崎が病に倒れていた時に言ったという言葉が「人生の本舞台は常に将来に在り」というものでした。人生の本番は過去や現在にあるのではない、常に未来にあるのだといって、自分を奮い立たせたわけです。しかもこの時、尾崎は70歳を超えていました。人生、どんなにどん底にあってもこれから本番を迎えるのだと思うと、勇気がわいてきますね。
尾崎行雄の名言2・「世界中にこんな高い代償をはらった憲法はあるまい」
戦後、尾崎行雄は日本国憲法についてこんなことを語っています。「おそらく、世界中にこんな高い代償をはらった憲法はあるまい。ただでもらったなどと思ったら、ばちがあたる」。戦争で日本は焼け野原になり、民主主義の国として再出発しました。まさに高い代償をはらった結果、日本国憲法ができたわけですが、尾崎は日本を平和国家として立て直すことができれば高い代償も決して無駄にはならないと考えていたようです。憲法については護憲派、改憲派といろいろな意見があると思いますが、大きな犠牲のもとで日本は民主主義国家となったことは忘れないようにしたいですね。