雷帝と恐れられたモスクワ大公国のツァーリ「イヴァン4世」を元予備校講師がわかりやすく解説
領土の拡大
イヴァン4世は祖父や父と同様、領土の拡張を図ります。最初のターゲットとなったのは弱体化していたモンゴル系諸国。キプチャク=ハン国がイスラーム化していた関連で、モンゴル系諸国はイスラーム勢力となっていました。そのため、ロシア正教会はモンゴル系諸国との戦争を聖戦として支持します。
1552年10月、イヴァン4世は10万を超える軍勢を編成し、ガザン=ハン国に侵攻しました。戦いに勝利したイヴァン4世はモスクワに「聖ワシリイ大聖堂」を建立します。「聖ワシリイ大聖堂」はロシア文化を象徴する建物としてよく知られていますね。現在は世界遺産となっています。
1556年にはボルガ川下流でカスピ海北岸に位置していたアストラハン=ハン国も併合。東への道を開きました。さらに、イヴァン4世はコサックのイェルマークが行ったシベリア遠征を追認し、イェルマークの占領地をロシア領土に組み込みます。
親衛隊の武力を背景とした専制政治
イヴァン4世は自分の権力を維持・行使するためにオプリーチニナという親衛隊を組織します。組織された親衛隊は1565年に裏切り者とされた貴族6名を斬首しました。
この一件を始まりとして、親衛隊は反ツァーリと疑われた貴族たちを反逆者として弾圧します。現在、わかっているだけでも4,000人近くが処刑されました。中には串刺しで処刑されたものもいて、イヴァン4世は「雷帝(グローズヌイ)」と恐れられました。
親衛隊のターゲットはギリシア正教の高位聖職者である主教やイヴァン4世の従兄で有力なライバルと目されたスターリツァ公などかなり高位の人々にも及びます。
貴族たちの中には親衛隊の廃止をイヴァン4世に歎願する者もいましたが、イヴァン4世は歎願者全員を処刑しました。恐怖をともなうイヴァン4世の専制政治を止めることができるものは誰もいなかったのです。
ノヴゴロドの虐殺
1570年、リトアニアと戦っていたイヴァン4世はノヴゴロドやプスコフがリトアニアに味方しようとしていると疑います。そのため、裏切り者を制裁するため15,000の親衛隊をノヴゴロドに派遣しました。
親衛隊は極秘のうちにノヴゴロドに近づくため、通過する村々を焼き払い、住民は口封じとして殺害されます。ノヴゴロドに到着した親衛隊は町を封鎖し、人々を家に閉じ込めました。その上で、親衛隊はノヴゴロドで略奪と破壊の限りを尽くします。
略奪は2週間にも及び、3,000人ものノヴゴロド市民が虐殺されました。また、親衛隊はノヴゴロドにあった穀物をすべて焼き払ったため、残された市民たちは深刻な飢えに苦しめられます。
ノヴゴロドを略奪した親衛隊はプスコフに移動。プスコフでは略奪こそおきませんでしたが、市民は強制労働や重い税を強要され苦しめられました。
リヴォニア戦争の敗北
イヴァン4世がノヴゴロドの虐殺を行った背景にはリトアニアとの長期戦であるリヴォニア戦争がありました。
東方ではモンゴル系諸国を併合し領土を拡大したイヴァン4世でしたが、西方にはリトアニア=ポーランド連合王国があり簡単に進出できる状況ではありません。1558年、イヴァン4世はバルト海沿岸にあるリヴォニアの領有をめぐって戦争が始まりました。
戦いの途中でスウェーデンやリトアニア=ポーランド連合王国が介入し、大規模な戦争に発展します。戦いは20年以上に及びましたが、モスクワ大公国の敗北で終わりました。自国に不利な戦いを行っていたイヴァン4世はノヴゴロドやプスコフに対する猜疑心を強め、虐殺に及んだのかもしれませんね。
イヴァン4世死後のロシア
雷帝とよばれ恐れられたイヴァン4世の死により、大貴族たちは息を吹き返しました。イヴァンの子が早死にした後、ロシアは混乱状態になります。それに付け込んだポーランドが一時モスクワを占領するなど、混乱はピークに達しました。1613年、貴族の一人ミハエル=ロマノフが皇帝に即位することでイヴァン4世死後の混乱は終息。ロシア帝国の歴史が始まりました。