日本の歴史江戸時代

天下人徳川家康が築いた全国屈指の巨城「江戸城」を元予備校講師がわかりやすく解説

利根川の付け替え工事と城下町の整備

家康が関東に入ったころ、江戸周辺は利根川荒川が作る低湿地帯でした。特に、利根川は坂東太郎ともよばれ、大規模な水害を引き起こす暴れ川です。江戸時代以前の利根川は東京湾に注いでいたため、下流部の江戸もしばしば浸水しました。

江戸を水害から守り、各地の物資を運び込んで大都市とするためには利根川の治水工事は避けられません。そこで幕府は利根川の河口を東京湾ではなく、太平洋岸の銚子に付け替えることを考えました。

工事は16世紀末から17世紀にかけて、複数の個所で行われます。さらに、荒川の河口を西側に移し、現在の江戸川を開削しました。

また、江戸時代初期には城下町の整備も行われます。家康が関東に入った直後、江戸城の修築は最低限にして日比谷入江の埋め立てによる城下町拡大をおこないました。これらの工事の結果、江戸は多くの物資を運ぶことができる水運の街に生まれ変わります

将軍のプライベートスペース、江戸城大奥

江戸城は幕府の中心であると同時に、将軍が居住する場でもありました。大名や老中たちと話し合い、政治をおこなう「表」に対し、将軍のプライベートスペースは「奥」とよばれます。2代将軍徳川秀忠の時代、老中などが政治をおこなう「表」と将軍が執務をおこなう「中奥」、将軍の住まいである「奥」が区分されました。

大奥の仕組みが整えられたのは3代将軍徳川家光のころです。家光の乳母である春日局が大奥の制度を整えました。大奥には将軍の正妻である正室や第二位以下の夫人である側室、将軍の生母などが居住します。

側室やそれ以下の身分であっても、将軍の生母となると大きな力を持ちました。その代表例が5代将軍徳川綱吉の生母の桂昌院です。

大奥には幕府から給金を与えられる大奥女中が勤めていました。その数、1,000人から3,000人ともいいます。大奥の経費は幕府にとって馬鹿にならないものでした。

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