日本の歴史江戸時代

天下人徳川家康が築いた全国屈指の巨城「江戸城」を元予備校講師がわかりやすく解説

江戸城に現存する建物

江戸城には天守をはじめ多くの櫓がつくられましたが、火災や戦災、改修工事などで多くが失われました。現在まで残っているものは富士見櫓巽二重櫓伏見二重櫓です。

明暦の大火で天守が焼失したのち、天守の代わりとされたのが富士見櫓でした。江戸城の中央付近にあり、天守に次ぐ高さだったため天守の代わりとされます。関東大震災で被害を受けましたが修築され、現在まで残されました。

巽二重櫓、巽櫓、桜田二重櫓ともよばれる櫓は濠の角に建てられた櫓。そのため、濠越しにその姿を見ることができます。櫓をよく見ると鉄砲や弓を射かける狭間や石垣を上る敵を攻撃する石落としなどがあり、実践的な櫓であることがわかりますね。

もう一つの伏見櫓は皇居二重橋越しに見える櫓。二重橋は、現在でも皇宮警察が警備しています。文明開化を象徴するようなデザインの橋と江戸時代の名残である伏見櫓のコントラストが見事ですね。

江戸城で起きた歴史的大事件

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江戸時代を通じて政治の中心だった江戸城。ここでは多くの事件が起きました。江戸城に関わる数ある事件の中から、今回は3つを取り上げます。一つ目は江戸城天守閣が炎上した明暦の大火、二つ目は忠臣蔵で有名な松の廊下刃傷事件、三つ目は大奥の大スキャンダルである江島生島事件。江戸城を揺るがした歴史的事件にスポットを当ててみましょう。

明暦の大火

4代将軍徳川家綱の時代にあたる1657(明暦3)年3月2日、江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火が起きました。この火事は振袖火事という別名を持ちます。

江戸の裕福な質屋の娘が美少年に恋をし、あまりに恋い焦がれて病にかかりそのまま亡くなってしまいました。娘の両親は棺に形見の振袖をかけて本妙寺に納めます。当時、遺品は寺男たちがもらってもよいことになっていたため、寺男の一人が振袖をもらい受け転売しました。

しばらくすると、その振袖を着た娘が病にかかって死去。棺にかけられた振袖は再び振袖が本妙寺に戻ります。不審に思った住職が振袖を焼いて供養したところ、火の粉が舞い上がり寺を焼きました。その後、火は江戸市中に広がる大火になったというのです。

伝説の真偽はさておき、明暦の大火が大火災であったことは間違いありません。死者は30,000とも100,000ともいわれ、天守閣を含む江戸城の多くの建物が焼失しました。焼失した天守の再建は重臣保科正之の反対により見送られたため、江戸城は天守のない城となります。

“松の廊下刃傷事件”

1701(元禄14)年、年賀のあいさつの返礼として勅使が江戸城に下向してきました。勅使の接待役である吉良上野介と補佐役とされた赤穂藩主浅野長矩の間で争いが起きたのです。

江戸城中の松の廊下で浅野長矩が「この間の遺恨、覚えたるか!」といって吉良を切りつけました。吉良は反撃せず、浅野の攻撃から必死に逃げます。浅野は周囲のものたちに取り押さえられました。取り押さえられた時、浅野は「吉良には恨みがあったので、江戸城中での大事な儀式の最中だったが切りかかった」と述べています。

5代将軍徳川綱吉は浅野長矩に即日切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰されました。その後、赤穂藩元家老大石内蔵助らが吉良上野介を襲撃し討ち取ります。この話は『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃や歌舞伎の演目として広く庶民に知られました。

江島生島事件

大奥女中の大スキャンダルとして知られるのが江島生島事件です。江島は7代将軍家継の生母である月光院に仕える大奥年寄。生島は歌舞伎役者の生島新五郎のこと。

事の発端は江島が月光院の名代として上野寛永寺にある6代将軍徳川家宣の墓参りに赴いたとき、懇意にしていた呉服商の誘いで生島の芝居を見に行ったことにありました。

芝居見物の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開きます。ところが、時を忘れて楽しむうちに大奥の門限時間に遅れてしまいました。大奥の入り口で「入れろ」「ダメだ」と押し問答しているうちに騒ぎが周囲に知られてしまいます。

騒ぎが大きくなり、町奉行や大目付が事件を調査。江島は遠島、江島の異母兄で旗本だった白井勝昌は斬首、生島は三宅島に遠島とされます。のち、江島は月光院のとりなしによって遠島から信濃高遠藩への預かりとなりました。処罰が1,400人近くに及ぶ綱紀粛正事件へと発展したのです。

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