幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末動乱から日清・日露戦争まで君臨した「明治天皇」を元予備校講師が解説

自由民権運動と大日本帝国憲法

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西郷・大久保・木戸といった明治維新で活躍した元勲たちがこの世を去ると、世の中では国会開設を求める自由民権運動が盛んになりました。大日本帝国憲法で「統治権の総覧者」と位置づけられた明治天皇は強大な権限を持った君主となります。しかし、明治天皇は大権をむやみに振りかざすよりも、対立を和らげるために詔勅を用いました。

士族反乱と自由民権運動

1870年代の急激な近代化は多くの元武士たちである士族にとって受け入れがたいものでした。廃藩置県でリストラされ、武士の魂ともいえる刀を身に着けることを禁じられた士族たちは明治政府に反旗を翻します。特に九州では秋月の乱、神風連の乱などに続き、西郷隆盛を首領とする西南戦争が勃発しました。

その一方、土佐の板垣退助らは政府に対して言論で立ち向かうため、国会開設を訴えました。板垣らの運動を自由民権運動といいます。これに対し、明治政府は国会開設の詔を出して1890年ころまでに国会を開くことを約束しました。

政府に国会開設を約束させた民権派は政党を結成します。板垣退助は自由党を、大隈重信立憲改進党を結党し国会の開設に備えました。

大日本帝国憲法の制定

国会開設の前に、国の基本法である憲法を作る必要がありました。欧米諸国では憲法または憲法に準じる法律があり、それを持たない日本は格下扱いされてきたからです。幕末に結んだ不平等条約を改正するためにも、欧米のような法律の仕組みを作らなければなりませんでした。

政府の中心人物だった伊藤博文はヨーロッパに渡り憲法について研究します。伊藤が注目したのは国王に強大な権限を認めるプロイセンの憲法でした。日本に帰国した伊藤は初代枢密院議長として憲法草案を審議します。その結果できあがったのが大日本帝国憲法でした。

大日本帝国憲法はプロイセンと同様、強い君主権を認めています。選挙で選出された議員で構成される衆議院は天皇が任命する貴族院と同等の力を持ちました。この憲法で天皇は国の統治権を握る「総覧者」と位置づけられます。

憲法における天皇大権

国政の総覧者である天皇には幅広い権利が認められました。この権利を「天皇大権」と呼びます。まず、天皇は陸海軍を統率すると定められました。この権利を統帥権と言います。

また、天皇は陸海軍の常備兵力を定めるとされました。こちらは編成大権と呼ばれます。ほかにも宣戦布告や講和、諸条約の承認など外交でも幅広い権限を持ちました。これらは伊藤がモデルとしたプロイセン憲法に近い内容です。

ちなみに、これと対照的なのがイギリス。イギリスは憲法は持ちませんが、今まで制定された法律が憲法の役割を果たしました。

イギリス国王は政治上の問題を議会を率いる首相に一任します。この状態は「君臨すれども統治せず」と評されました。明治天皇は君臨し、かつ統治するというプロイセン風の憲法のもと国のトップに立ったのです。

初期議会の対立を緩和させた「和協の詔勅」

第一回衆議院議員総選挙から日清戦争直前までの議会を初期議会と言います。初期議会では軍備の拡張を図りたい政府と民力休養を訴える自由党などの政党(民党とよばれました)が激しく対立。特に対立したのが軍艦建造費でした。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、明治政府は海軍力の拡張を急ピッチで図っていました。中国を支配していた清国や北の大国ロシアに対抗するためです。一方、民党は地租を軽減し、国民負担を減らすべきだと帝国議会で訴えました。

対立が激化し、軍艦建造問題が宙に浮きそうになったとき、明治天皇が「和協の詔勅」を出しました。明治天皇は宮廷費を節約し軍艦建造費に当てるので、民党も予算成立に協力せよと言うものです。明治天皇の詔勅を受け、民党も態度を軟化させたため政府は予算を通過させることが出来ました。

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